タグ別アーカイブ: 昔話

黄門さまと緑所ヶ淵(勝田の民話から)23/23

(市報かつた昭和62年3月25日号より。文・平野伸生 絵・穂垣智子)

黄門さまと緑所ヶ淵

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池の中に十一面観音さまが、まばゆいほど金色に輝いていたのです

枝川と水戸市城東地区を結ぶ新水戸大橋下あたりで、那珂川がぐるっと曲がって流れるところがあります。むかしから、このあたりはだれ一人として川底を見た者はないといわれるほど、それはそれは深いところで、水の色がちょうど緑青をおびた色をしているところから、緑所ケ淵とよばれています。この緑所ケ淵には、竜がすんでいるともいわれていました。

ある年の夏、この話を聞いた水戸黄門さまは、家来を連れて枝川村にやってきました。

「緑所ケ淵とやらには竜がすんでおるそうじゃが、余が直に確かめてしんぜよう」

「恐れながら申しあげます。こごではいぐら泳ぎが達者な村の若い衆でさえ、決して泳がねえどこでごぜえます」 黄門さまと緑所ヶ淵(勝田の民話から)23/23 の続きを読む

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雨乞いのみこし(勝田の民話から)19/23

(市報かつた昭和62年1月25日号より。文・平野伸生 絵・穂垣智子)

雨乞いのみこし

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若者たちは雨乞いのみこしを担いで村中をねりあるきました

むかし、江戸時代のころ、田彦村の鎮守(吉田神社)さまに、たいそう立派なみこしがありました。みこしというのは神さまの乗りもので、祭りや早魃のときに若者たちが担いで、祝ったり、祈ったりするものです。

ところが、村の若者たちは何か不満があると、祭りの日以外のときでも鎮守さまのみこしを無断で担ぎ出してきては、大騒ぎしました。若者たちは毎日朝から晩まで働く一方で、骨休みの神事にしたいと思ったのです。

ある晩、若者たちは真夜中にこっそりみこしを担ぎ出してきて、村役人の庄兵衛さんの家の庭に置いて行きました。

「こりゃ大変だ、まだ鎮守さま出でしまった。なんとかしねえげればなんめえ」 雨乞いのみこし(勝田の民話から)19/23 の続きを読む

起き上がりの松(勝田の民話から)18/23

(市報かつた昭和61年12月25日号より。文・平野伸生 絵・穂垣智子)

起き上がりの松

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若者は素早く道端にあった肥寵をすっぽり頭からかぶって身を隠しました

下高昜の鉾香取(ほこかとり)神社南側の田んぼに面したあたりに、近年まで「起き上がりの松」とよばれた名木が一本立っていました。この松には、次のような話が伝えられています。

昔、ある村の者が、村松の虚空蔵様の近くにある阿漕浦とよばれる池へ漁に出掛けました。この池は、村松の大神宮さまの神聖な池で、漁をすることはかたく禁じられていたのです。それとは知らず、若者が漁をしているところへ、近くに住むじい様が通りかかりました。

「おめえ、どこのわげえもんだ。こごにはかだ(片)目の魚めとったらばちがあだっと」

「そんてなごだあ迷信だ」

若者は、じいさまの戒めにも耳を傾けようとせず、せっせと投綱をうって漁を続けていました。 起き上がりの松(勝田の民話から)18/23 の続きを読む

怒った天王さま(勝田の民話から)17/23

(市報かつた昭和61年12月10日号より。文・平野伸生 絵・穂垣智子)

怒った天王さま

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本田の氏神さま何だがしんねえが西原の方さうづってきっちまったど、村中大さわぎだ

むかし、足崎村の本田(ほんでん)という所に、太郎兵衛という人の良いおじいさんがいました。ところが、太郎兵衛じいさまは鼻天狗がたまにきずで、何かにつけて人前で自慢したり、いばりちらすので、だれからも嫌われていました。

ある日、太郎兵衛じいさまが沢田あたりの海岸を歩いていると、妙に光り輝く流木を見つけました。

「こんてに光る木は、今まで見だごだねえ」

太郎兵衛じいさまは、その木を大事に持ち帰ると、さっそく村の氏神さまに御神体として祭りました。

それ以来、氏神さまは年々お盛りになり、三台の山車が繰り込むほど、村をあげてお祭りをするようになりました。鼻天狗の太郎兵衛じいさまは、ますますいばりちらすようになりました。 怒った天王さま(勝田の民話から)17/23 の続きを読む

草田の坊三(勝田の民話から)16/23

(市報かつた昭和61年11月25日号より。文・平野伸生 絵・穂垣智子)

草田の坊三

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見せしめのために大きな杉の木に一昼夜しぼりつけられてしまいました

むかし、今からおおよそ380年ほど前、大島村に草田の坊三(ぼんさ)という若者がいました。坊三は働くことが大きらいで、足元にはえている庭草一本抜こうともせず、いつもぶらぶら遊んでばかりいました。このため、坊三の田畑は雑草におおわれていて、家の庭も軒下まで足の踏み場もないくらい荒れほうだいでした。

ある年の夏のことでした。何日も何日も日照りが続いて作物が実らず、村びとは困っていました。そこで、時の領主打出(らちで)の殿様にお願いして、大きなため池をつくることになりました。これがいまの大島溜(雷溜)です。 草田の坊三(勝田の民話から)16/23 の続きを読む

狐の恩返し(勝田の民話から)15/23

(市報かつた昭和61年11月10日号より。文・平野伸生 絵・穂垣智子)

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キツネは足に傷を負って、いかにもいたいたそうな表情で、じっと医者の顔をみつめていました

狐の恩返し

むかし、高野村にたいそう心のやさしい医者がいました。医者は村びとが病気で苦しんでいると、どんなに大雨が降っても、大風が吹いても、真夜中でも、出掛けて行って治療をしてあげました。

ある晩のことでした。隣の須和間村の若者が、村びとが病気で苦しんでいるのですぐにきてみてほしいと、息をきらしてかけこんできました。高野村と須和間村境は、田んぼや坂道があって昼間でもさびしい所でした。けれども、医者は苦にもせず薬箱を手にすると若者と一緒に出掛けて行きました。

病人はことのほか難病で、手当に時間がかかり、家路についたのは真夜中を過ぎていました。須和間の坂を下り、田んぼを過ぎて高野の坂道にさしかかったときでした。道端に一匹のキツネが、うずくまっていました。 狐の恩返し(勝田の民話から)15/23 の続きを読む

鼓ヶ崎城(勝田の民話から)14/23

(市報かつた昭和61年10月25日号より。文・平野伸生 絵・穂垣智子)

鼓ヶ崎城

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長槍を手にして陣頭にたち、敵兵を迎え撃ちました

むかし、今からおおよそ640年前の室町時代のころ、佐和の鼓ケ崎城の城主に、沢善四郎信綱という殿様が住んでいました。信綱はたいそう文武にたけ、やりの使い手でもあり、鼓の名手でもありました。

室町時代は、世の中が戦乱に明けくれた時代でした。各地で武将の勢力争いの戦いが起こり、このため多くの村びとが苦しんだのです。

戦乱のきざしは、沢(佐和)村にもただよっていました。時の関東管頌足利基氏にそむいた下野国の豪族、下野(しもつげ)禅司を沢善四郎信綱がたすけたため、足利基氏から怒りをかってしまいました。基氏は配下の那珂西(東茨城郡常北町)城主の那珂通泰に、沢善四郎信綱を討つようひそかに命じたのです。 鼓ヶ崎城(勝田の民話から)14/23 の続きを読む

雨降り塚(勝田の民話から)13/23

(市報かつた昭和61年10月10日号より。文・平野伸生 絵・穂垣智子)

雨降り塚

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村びとが草刈りに来たついでにこの塚に立ち寄り、手を合わせていました

中丸川を臨む大成町の一角に、近年まで大きな土饅頭塚がありました。この塚には、世にも不思議な話が伝えられています。

むかし、このあたり一帯は、昼なお暗い林や原野でさびしい所でした。ある日、六部笠をかぶり、白装束姿の六部夫婦がやってきました。その時、一天にわかにかきくもったかと思うと、稲妻が走り、大地も震えるばかりの雷が鳴り響き、雨が激しく降り出しました。

六部夫婦は近くの大木の陰へかけこんで、身を寄せ合い、雨をしのいでいました。ところが、運悪くこの大木に雷が落ちて、六部夫婦はあえなく死んでしまいました。 雨降り塚(勝田の民話から)13/23 の続きを読む

才三郎狐(勝田の民話から)11/23

(昭和61年9月10日号より。文・平野伸生 絵・穂垣智子)

才三郎狐

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一本松のキツネにまんまとたぶらかされてしまいました

むかし、勝倉村の武田溜に近い一本松という所に、たいそう知恵のある才三郎とよばれたキツネがすんでいました。才三郎というよび名は、もともと村の若者の名前でした。この若者は、顔だちはととのっているがなまけ者で、悪知恵がはたらきました。秋になると那珂川に帰ってくるサケを密漁しては水戸の城下へぼでふり(棒手振り)に出かけ、そのお金で酒ばかり飲んでくらしていました。

那珂川のサケは味が良いので、献上鮭といって水戸の殿様が朝廷や将軍様に献上してから食べる習わしになっていました。そのため、昔からサケは無断で漁をすることが禁じられていたのです。

ある晩のことでした。才三郎が那珂川へ密漁に出掛けた帰り、一本松のキツネにまんまとたぶらかされてしまいました。 才三郎狐(勝田の民話から)11/23 の続きを読む

那珂川からあがった観音様(勝田の民謡から)10/23

(市報かつた昭和61年8月25日号より。文・平野伸生 絵・穂垣智子)

那珂川からあがった観音様

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なんと、それは木彫の観音様でした

むかし、江戸時代のころ、三反田村に大層丹精な親孝行の娘がいました。娘は朝早くから夜おそくまで、雨の日も風の日もよく働きました。

ある年の秋のことでした。村の近くを流れる那珂川が、嵐で大水まあし(洪水)になりました。200年前の天明の大水まあしのときは、村で50軒もの家が水に流されたということですが、それと同じくらいの大水まあしでした。

那珂川はこのころは川底が浅く、堤防もなかったので大雨が降ると直ちに大水まあしになってしまったのです。

娘はせっかく丹精こめて作った稲が水に流されたり、泥に埋まってしまい、がっかりしました。娘は川岸に立って、うらめしそうに川をながめていました。すると、濁流の中を小さなほこらが流れてきて、中にきらきら暉くものが見えました。 那珂川からあがった観音様(勝田の民謡から)10/23 の続きを読む