カテゴリー別アーカイブ: 勝田

昭和の佐和高等学校の画像を公開

茨城県立佐和高等学校の開校時関連の画像と、市報かつたの掲載記事を公開しました。

→昭和の佐和高等学校(画像)

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科学万博つくば ’85の動画を公開

昭和60年3月17日から9月16日かけて開催された国際科学技術博覧会(つくば ’85)で、「勝田市の日」「那珂湊市の日」が開催されました。当時の動画を公開します。

勝田市の日


(市報かつた昭和60年5月25日号)

ワンダフルかつた 万博「勝田市の日」大成功

私たちの街を世界の人々に知ってもらおうとする「勝田市の日」が、昭和60年5月12日科学万博会場茨城パビリオンで開かれました。
武田しのぶ会、ヤンサ太鼓保存会、婦人会連絡協議会、商工会議所婦人部、交通安全母の会、日製佐和工場民謡会、中学校合同吹奏楽団、枝川小児童など出演者や関係者約600人が参加。午前11時からと午後2時から2回出演しました。
会場は立ち見客が出るほどの盛況。ジャンケン大会には外国の婦人も参加するなど、国際博覧会らしい盛り上がりをみせていました。

那珂湊市の日

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昭和のクリスマス

昭和のクリスマス(S43〜44)の画像を公開しました。

→昭和のクリスマス画像コレクション

(市報かつた昭和43年1月10日号)
クリスマスの集い
市福祉事務所では12月24日、身体障害のこどもたちのために”クリスマスのつどい”を開きました。サンタクロースのおじさんから贈物をもらって大喜びのこどもたち。

(市報かつた昭和44年1月10日号)
クリスマスに大喜び
身体障害のこどもたちのために肢体不自由児父母の会では、ライオンズ・クラブと社会福祉協議会の後援で、クリスマス・パーティーを12月21日にひらきました。こどもたちは、サンタのおじさんからのプレゼントや、手品、紙芝居などに大喜びでした。

(市報かつた昭和44年1月10日号)
楽しい青少年ホームの利用
さる12月20日に開かれたホーム主催のクリスマス・パーティー。約50人の市内の若者が参加し、歌ったり踊ったりの楽しい一夜を過ごしました

(昭和の記事から)乾燥イモ加工の先駆者大和田熊太郎翁の碑

(市報かつた昭和38年11月7日号)

乾燥イモ加工の先駆者大和田熊太郎翁の碑たつ

このほど長砂地内の共同墓地に大和田熊太郎翁の墓碑が旧前渡村村民有志によって建てられました。

大和田熊太郎といっても、市民の皆さんにはおわかりにならないかも知れません。しかしその名は知らなくて乾燥イモ(ほしいも)はご存知でしょう。あのサツマイモを薄く切って乾燥する蒸切干のこと。この乾燥イモ加工の茨城県における先駆者が、ほかならぬ大和田熊太郎翁なのです。

翁は長砂の人で、明治39年41歳で旧前渡村村長となり、その後四期村長の職にあった、いわば当地の重鎮というべき人でした。当時(明治40年代)前渡村では、夏作物として陸稲、大豆、粟、稗等を栽培していましたが、栽培技術の幼稚さや科学肥料の末発達という悪条件から、年々かんぱつに見舞われ農家は困窮の中に停滞していました。翁はこうした農家経済の難局を何とかして打開しようと村長の立場から奮闘しました。

このとき大命ともいうべき思いが翁をとらえました。サツマイモの栽培とその加工です。サツマイモはかんばつにも冷雨害にも強いというところから、当時の農業経済を大きく前進させることは明らかです。翁は決心し、当時の甘藷栽培加工の先進地静岡県から講師を招き村内数力所に講習会を開催して村民を指導しました。こうして長砂一帯に甘藷栽培と乾燥イモ(ほしいも)加工が根をおろし、当地の農業経営を豊かにする基礎がができたのです。その後、翁は県会議員にも当選し、茨城県農政にも多大な尽力をしました。昭和9年2月没。

世は変り、科学技術の発達と農業経常の進歩によって、食糧事情とともに農家経済もどうにか安定した今日、翁の業績をしのび、後世に伝えようというところから、有志一同による建碑となったわけです。

勝田の伝説チヂランプウは史実か(昭和の記事から)

市報かつた昭和48年10月10日号から

勝田市の祖先の遺産『虎塚古墳』が発見され大きな反響を呼びましたが、これは事実そのもの。ところで、この勝田市史の上に強烈な印象をうえつけた事実とは別に、勝田市史のなかで解明したい歴史的伝説があります。それを「チヂランプウ伝説」と呼んでいますが、事実なのか、あるいは単なる伝説なのか、さる昭和48年8月24日の夜、この問題をとりあげて行なわれた市民大学の講演の概要を、ここに再録してみましょう。

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これから話すのは、馬渡や長砂あるいは阿字ヶ浦の人々の閧に伝わった話です。阿字ヶ浦と、村松のちょうど中間に、沢田というところがあります。ここにはかつて青塚、二亦、大塚という三つの村がありました。そこは、前が1000軒、後が2000軒ほどの部落だったそうです。
1000 ところがあるとき、秋の8月15日から75日間にわたって、東北の大風が吹き荒れ、三つの村の家々はあるいは倒壊し、あるいは砂に埋没して住むことができなくなってしまった。そしてそこの住民は三つの村に分れたといいます。一説にはその一つが横道であり、さらに馬渡、前浜の三つ、そこに移住したといわれています。もう一説では、青塚村と二亦村は馬渡へ、大塚村は前浜に移住したといいます。そして、この大風を名づけて、土地の人は「チヂランプウ」または「チヂランプン」と呼んでいます。

この台風−チヂランプウが吹き荒れたのは、一体、いつごろかといいますと、これかまたいろいろあって、平磯町郷土史や黒沢家氏神の記念碑には元和2年と出ています。その他の記録では、同3年、同初年、同末年、寛永18年などいろいろです。 勝田の伝説チヂランプウは史実か(昭和の記事から) の続きを読む

昭和の記事から18〜高野のうつりかわり

「市報かつた」に昭和53年から昭和54年にかけて「文化財めぐり」として掲載された”ムラのうつりかわり”(全18回)を紹介します。(18/18)

高野

(市報かつた昭和54年5月10日号掲載)

白旗八幡神社、俗に八幡様の境内に、愛宕、富士、天満、招魂、阿夫利の各神社が杞られています。なかでも阿夫利神社は、石尊様ともよばれ、古くからムラの人達に崇め、親しまれてきました。この阿夫利神社は、相模国の御獄で、別名雨降り山として知られる、神奈川県伊勢原市の大山に鎮座する阿夫利神社から分祠したといわれています。石尊を神体とし、病気を治してくれる神とされていますが、一般には、雨をもたらし、農耕を司る神として知られています。

高野の石尊様の祭礼は、5月1日ですが、石尊様の祭礼といえばかつては、近郷近在の村々に広く知られたお祭りでした。原、宿、小貫山の三坪から山車が繰り出され、この時、笛、大小の太鼓、鉦によるお囃子が一種独特なもので俗に「石尊囃子」として知られています。この石尊囃子は、「トリンバヤシ」とよばれる、つまり、切り返しの部分に特徴があるといわれています。石尊囃子の原流は祝町(大洗町)辺りの芸者が身につけていた芸を、足崎の芸者達が会得してきて、さらに、高野の若者達が、その芸に工夫を加えて、一種独特の調子をもつ石尊囃子を創り出したといわれています。今のうちになんとか後継者を育て、貴重な無形民俗文化財として、永く後世に保存したいものです。 昭和の記事から18〜高野のうつりかわり の続きを読む

昭和の記事から17〜高場のうつりかわり

「市報かつた」に昭和53年から昭和54年にかけて「文化財めぐり」として掲載された”ムラのうつりかわり”(全18回)を紹介します。(17/18)

高場

(市報かつた昭和54年4月25日号掲載)

稲田、高野、高場の三つのムラの接点地に近い高場地内に、佐和駅が設置され、営業を開始したのが明治30年2月25日でした。同年の8月23日には、水戸、岩沼間が開通し、常磐線(当時は日鉄海岸線)は全面開通しました。

佐和駅の設置は、周辺地域の発展に大きな役割を果たしてきたことはいうまでもありません。「茨城県統計書」から、当時の旅客、貨物等の数量をみてみますと、明治33年の旅客数12800人、貨物数2800トンであったものが、日露戦争が終わった翌年の明治39年には、旅客数14200人、貨物は2.2倍の6300トン。さらに、明治44年には、旅客数16000人、貨物は3.1倍の9500トンと急激に増えています。明治44年は、勝田駅が宮集を開始(明治43年3月18日)した翌年に当たりますが、この年の勝田駅の旅客、貨物等の数量は、7800人で2100トンですから、旅客は勝田駅に比べて2倍、貨物は4.5倍となっています。この佐和駅で取扱われた貨物は、湊や平磯に水揚された水産物、それと、常磐炭抗などで抗道に使用された松材、その他、大小麦、甘藷、苗木などが主なものでした。なかでも、サンマが水揚された時期には、湊方面から昼夜をとわず、サンマを満載した荷馬車で大変にぎわい、湊・太田街道など、駅周辺の道筋は、魚の油でにじんでいたといわれています。大正時代の高場

明冶末期から大正初期頃になると、農業面で化学肥料の需用が高まり、明治30年初頭に肥料商二号店が開店し、同39年頃には湊の小圷肥料店佐和支店が開店し、大正初期にはヤマサなどの各肥料店が佐和駅周辺に開店しました。当時佐和駅に降された貨物の8割が、肥料であったといわれています。図は大正15年(昭和9年)頃の佐和駅周辺を復原したものです。マルカ、東海両運送店をはじめ、銀行、郵便局、病院、飲食店、劇場などがみられ、繁栄した佐和駅周辺の当時の様相がしのばれます。 昭和の記事から17〜高場のうつりかわり の続きを読む

昭和の記事から16〜佐和のうつりかわり

「市報かつた」に昭和53年から昭和54年にかけて「文化財めぐり」として掲載された”ムラのうつりかわり”(全18回)を紹介します。(16/18)

佐和

(市報かつた昭和54年3月25日号掲載)

市域の北端部に位置し、那珂町と東海村に隣接する佐和ムラは、浜街道(岩城相馬街道)が整備されるとともに、早くから宿場として発展してきました。「元禄常陸国絵図」、「大日本道中行程細見記」なとの古地図にもみられるように、ことに、宿駅制が定められてからは、水戸、石神(東海打)間を結ぶ荷駄の継所として、重要な役割りを果たしてきました。

しかし、一方ではこのような宿駅制によって、佐和ムラはもとより、周辺のムラが疲弊し、困窮をまねく原因となったことも事実です。その制度が、宿駅制にともなう助郷(すけごう)とよばれた制度でした。この助郷とは、幕府が諸街道の宿場の継立てを援助するため、宿場の近郷近在に課した宿場人足です。参勤交替が制度化され、道中が増えるにつれて、助郷は宿場周辺のムラにとっても大きな負担となり、困窮においやられるはめになりました。とくに、浜街道は享保年中以降、交通がふえて、浜街道を経て水戸街道を利用する大名の数は、たとえば、文化5年(1808)のばあい、東海道146頭、奥州街道37頭、中山道30頭についで、水戸街道23頭であったから、かなりの交通量であったことかわかります。しかも、大名などは、定められた人足以外に、違反して使役するものが多く、また、宿場には馬士や人足が、旅人から酒手をねだるなと風紀も乱れ、このため、幕府は道中奉行を通して、再々厳しい取締りをおこなっています。

「馬渡の裸馬」とか、「佐和のボロ宿」などといわれたのも、過酷な助郷制度が原因であったわけです。事実、文化7年には、佐和、森山(日立市)の二村は「囚窮ニ囚テ人馬銭今年ヨリ五年間二割五分増」というように、特別に水戸藩の庇護を受けています。一見はなやかな宿場の裏面史がうかがえます。 昭和の記事から16〜佐和のうつりかわり の続きを読む

昭和の記事から15〜稲田のうつりかわり

「市報かつた」に昭和53年から昭和54年にかけて「文化財めぐり」として掲載された”ムラのうつりかわり”(全18回)を紹介します。(15/18)

稲田

(市報かつた昭和54年2月25日号掲載)

佐和駅に近い湊街道沿いの稲田、向場、高野の三つのムラ境に、道祖神社が杞られています。ムラの人びとは、この神様を「道六神様」とよんでいます。

この迫祖神社の由来は、一説によると、浄妙山徳定院東聖寺の住職、第20世香起上人が、横堀(那珂町)の発汗地蔵とともに、四方固めとして祠ったといわれ、創建年代は、今から300年ほど前の天和から貞享年中の頃ともいわれています。

もともと、この道祖神は、道六神とか、塞の神などとよばれ、祭神は猿川彦の神とされていますが、旅の安全や悪疫かムラに侵入してくるのを防いてくれる神様としてムラ境に杞り、古くから信仰されてきました。道祖神社に、よく草鞋(わらじ)が奉納されているのが見かけられるのもこのためです。また、疫病か流行したさい、ムラ境に青竹を立てて、注連縄を張る「ミチキリ」の習俗なども、一種の道祖神信仰といえるでしょう。市域では、この道祖神を杞るムラとしては、稲田の他に高野、枝川などに杞られています。 昭和の記事から15〜稲田のうつりかわり の続きを読む

昭和の記事から14〜田彦のうつりかわり

「市報かつた」に昭和53年から昭和54年にかけて「文化財めぐり」として掲載された”ムラのうつりかわり”(全18回)を紹介します。(14/18)

田彦

(市報かつた昭和54年2月10日号掲載)

「田彦村へ二里有、右ハ岩城海道、左ハ太田街道と有、左ノ方松山ノ内、赤城明神社有、又盗八神と称し、比松山へ盗八ヲ追込ハ、再不出と云、左り方道なし」

これは、寛政3年(1791)に仙波村(水戸)の百姓、深作平右衛門が記した「奥州海道行程記」の一部です。田彦ムラは、江戸時代になって、(岩城相馬街道、浜街道)太田・棚倉街道が整備され、荷駄の継所の重要な宿駅として、発展したムラです。ことに、太田・棚倉街道が整備されてからは、大変にぎわったようです。そこで、江戸時代から、昭和10年代ごろにかけての田彦宿を復原してみましょう。ムラを復原するさい、手がかりとして屋(家)号を調べるのも一つの方法です。田彦ムラは、街道両側に馬宿や旅篭、商店などが建ち並んでいました。 昭和10年ごろの田彦

たとえば、馬宿では、かの屋、平野屋、馬宿があります。旅篭では、さくら屋、やまと屋。商店では、かまや(酒造)、醤油屋(醤油醸造)、伊勢屋(酒屋)、こふく屋、わた屋、さと屋、雑貨屋、油屋、車(水車)、米屋、飴屋、清水屋などがあります。また、職人が屋号として残ったものに、桶屋、畳屋、目伝さん(家伝薬による眼の治療)、馬喰、車大工。このほか、特定な場所が家号となったものに、塚本(一里塚)、宮前、新地向屋敷などがあります。水戸方面から日立方面に向かって、つるや(旅篭、加満やのつぎ)釜や(呉服大物、酒しよう油菜、かのやのつぎ)大黒や(雑貨、釜やのつぎ)日野や(豆腐や、加満やのつきのたたみやと同所) 昭和の記事から14〜田彦のうつりかわり の続きを読む