腹切り佐七(勝田の民話から)9/23

(市報かつた昭和61年8月10日号より。文・平野伸生 絵・穂垣智子)

腹切り佐七

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とがめを覚悟で無断で蔵の鍵を開け、村びとにヒエを配ってあげました

むかし、江戸時代の享保年中、今からおおよそ270年も前のこと、三反田村の庄屋で、佐七という人がいました。父は三衛門といい、代々庄屋役を勤める家柄でした。佐七には妻と幼い長男の市之介、ほかに二人の女の子供がいて、家族は幸せにくらしていました。

佐七は情け深く、思いやりがあり、くらしに困ってる者がいると助けてあげました。村びとは心のやさしい佐七のことを、「庄屋様、庄屋様」と、敬いました。

ところが、享保年中は飢饐の年でした。何日も何日も冷たい雨が降り続いて、真夏に綿入れを着ていたというのです。このため、作物は実らず三反田村の人びとは、食べ物がなくて苦しんでいました。

佐七は困っている村びとを救うため、土地や、代々伝わってきた家宝を売って、そのお金で年貢を立て替えてあげたり、穀物を分けてあげたりしました。けれども、佐七の財産には限りがありました。

「ああ、売る物はなぐなってしまったし、穀物も底ついでしまったあ。あどはおがみ(お上)にお願えをして、郷蔵(ごおぐら)開げでもらあほがあんめえ」

郷蔵とは水戸藩が領内の村むらに、飢饐に備えてヒエを貯えておいた蔵のことです。佐七は一日も早く村びとにヒエを配ってくれるよう、お上に何度も何度も嘆願しました。けれども、お上は佐七の願いを聞き入れてはくれませんでした。

「村の者が難儀してんのに、お上には血も涙もねえ……」

これ以上願い出ても無駄だと知った佐七は、とがめを覚悟で無断で蔵の鍵を開け、村びとにヒエを配ってあげました。村びとは久しく食べていない穀物を手にして、大喜びでした。佐七は家に戻ると家族に事のいきさつをいい聞かせ、愛する妻と三人の子供を道づれにして、自分も腹を切って責任をとったということです。このため、腹切り佐七様とよばれ、村びとが建てたと伝えられる、義民佐七と家族の霊をまつる墓石は、三反田の福道寺にあります。

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