昭和の記事から~那珂湊市史余話その15

(広報なかみなと昭和57年6月30日号)

田所磯の爆破除去

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大内孫兵衛氏より平塚次左ヱ門家にあてた書簡の一部

那珂湊港の改修及び関連する大谷川堀割計画は、明治期に入ってからも連綿と続く。この港のもつ重要性は、なお衆目の一致するところだからである。明治期の計画と工事には西洋土木技術が加わる点に特徴がある。前にも神磯としてふれた、那珂川口の暗礁田所磯の爆破状況を取り上げてみよう。

まず、神奈川県の人大谷弥七は出所磯を除去しようと明治3年から工事を起し、2年の歳月を費して磯に穴をあけ、水雷火を仕掛けようとした矢先大暴風が襲来、足場を失って失敗した。人みな田所明神の禍をうけたのだと恐れたという。

明治10年代、那珂川の水流は衰え、川囗はとざされて船舶の出入りは困難な状況になった。ときに県令は、土木県令といわれた人見寧である。明治14年の第3回通常県会に港湾費をあげ、翌15年3月上京、一切の手筈をととのえて、4月田所磯の爆破作業にとりかかった。その状況は、当時の「茨城県勧業雑誌」や「同勧業年報」あるいは「茨城日々新聞」にみることができる。

要約すると、この爆破作業に当ったのは、児玉海車水路局員、八田海車少佐、三浦海軍少佐、県勧業課員、英国人クエド等である。爆破に先だって、4月8日に那珂湊港および田所磯の実測が開始された。激浪のため作業は困難をきわめたが15日から20日までかかり、ようやく磯の状況を把握することができた。それからは退潮のときをねらって磯に穴をあける作業となり、ついに5か所の穴を穿った。この穴ごとに30~50個のダイナマイトを充填し24日、95間離れたところから伝火した。「伝火スルヤ忽驚ク一声ノ霹靂卜共二臼大ノ石塊撥起スルモノアリ砂礫石片ノ四方二散乱シ落葉ノ飛フカ如ク其落ツル所ヲ知ラザルモノアリ渺々タル海面モ大地卜共二震動シ響数里ノ外二達セリト此日傍観ノモノ数百人ナリシモ其薬気ノ猛烈ニシテ効カノ非常壮快ナル事心目ヲ驚カサゝルモノナカリキ」という。

爆破はほぼ成功し、田所磯はわずかの礁根を残すのみとなった。神磯がついに除去され、再び那珂湊港はよみがえるか、と那珂湊の人々の期待は大きかった筈である。わずかながら、その那珂湊の一商人大内孫兵衛が、遠く宮城県石巻市田代島の平塚家にあてた手紙に、期待のほどをうかがうことができる。爆破5日後の4月29日付書簡(那珂湊市史料第三集)にはこうある。「川口御普請御出来上り相成沢勹外国人沢山二参り異人様館出来二相成可申なそ色々咄し合せ(中略)他国船之多入船可之有見込ゆへ其節ハ鐚金まわり宣敷相成可申見込ゆへそれニいたし候而も長命いたし不申候而は相成不申心得二御座沢」と。

しかし、この一発の轟音も那珂湊回生の転機とはなりえなかったのである。 昭和の記事から~那珂湊市史余話その15 の続きを読む

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