昭和の記事から~那珂湊市史余話その14

(広報なかみなと昭和57年4月26日号)

那珂港疏通議

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寛政8年那珂川口略図

水戸の彰考館に、「那珂港疏通義・全」と表題がつけられた一綴の史料がある。「疏通」とは「とどこおりなく通ること、また通すこと」であるから、この史料は、那珂港の船舶出人、あるいは河口改修に関係するものだということになる。

内容は寛政8年(1796)、すなわち本多利明が那珂湊を視察し、那珂港再興(を図ったわずか3、4年前のことである。要約するとこの年6月、江戸馬喰町の幸手屋幸兵衛が磯浜村の源三郎と相談の結果、江戸本石町の亀屋吉兵衛と越前敦賀の平野屋仁衛門を金主とし、那珂川口の改修願を水戸藩へ申し出た。那珂港は昔、1000石積以上の船が出入りしていたが、近頃は4、500石積以下の船しか人津しない。川口が変わり水はけが悪いからである。そのわけは那珂川の水流が二つに分かれ、磯が多いが通航路になっている小囗へ七分、大口へ七分の水落ちだからだ。したがって、小口の水抜けのところへ大石や材木で、長さ300間幅20間、高さ水上より2丈の築立をすれば、船の出入りは自由となり、荷主、船持、水主も安心、領内も繁昌する。工事が完成すれば、他領の入津船から帆役銭として、一反につき50文ずつ取り年合計金高の一割を上納する。という願である。

藩ではこの願に対し、地元の意見を求めている。湊村では相談の結果、船役人、与頭、人別掛、年寄役、船庄屋、庄屋ら33名が連署の上、おおよそ次のような反対意見を提出した。

「那珂川口は、東海の荒津で北風が当り、時々高浪もあり、また吉田神社、天神社出現の神磯もあって船舶には難儀なところだ。他所者の案は実状を把握していない。小口は回船、漁船ともに通航し、難風をしのぐ大切な水路である。人口には風除けがなく、また北からくる船は入津しづらい。大石材木等で築立を造るというが、年数もかかり、失敗すればそのエ材が港内へ溜り、結局大口小口とも駄目になってしまう。

これまでも他所者の註画は、金主名目だけで途中で中止になっている。それよりも、那珂川の川筋を修理した方が河口も自然と治り、昔の状態に戻るのだから、この点を村役人共へ相談するよう命じてください」

この反対意見は10月に出されている。同じ10月の9日には金主の一人平野屋仁衛門が、とくと現地を見た結果、前の計画ではなかなか成功おぼつかないので、川筋修理に変更したいと申出ている。

史料は、ほば以上につきる。幸手屋幸兵衛らの計画も、湊側の案も具体化したことを示す史料は他にない。金主側の結束も弱く、熱情もさめたのか、あとは不明の一件であった。
「他所者」が資金を投じても充分に採算が取れると踏まれるほど、那珂港のもつ意義は大きかったのである。

佐藤次男(市史編さん専門委員)

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