昭和の記事から~那珂湊市史余話その13

広報なかみなと昭和57年1月15日号

本多利明と那珂湊

13
那珂川口の図

本多利明は、越後国(新潟県)蒲原郡の出身、寛保3年生まれ、文政3年没、78歳。北夷または魚鈍斎と号した。

数学、天文、地理、測量、航海の術に優れ、24歳のとき江戸牛込の盲羽に塾を開き、世人は音羽先生と称した。自ら経世家をもって任じ、各地を遊歴して地理民情、物産の有無、交通の便否などを調査した。また諸外国の事情にも詳しく、開明思想家として江戸時代後期の特異な存在であった。

この利明が、水戸藩の史館総裁立原翠軒及びその高弟小宮山楓軒と親交を深めたのは、寛政11年(1799年)のころである。その年、翠軒と楓軒の両碩学から、利明は水戸藩の富国繁栄策について極秘の調査依頼を受けている。

利明の水戸領内視察は、10月23日江戸表出立、銚子から常陸へ入り、11月ごろまで行われた。その報告書は、翌12年正月に提出されている。いわゆる「常陸遊覧不問物語」である。「遊覧」とはあるが、これは単なる物見遊山の記録ではなく、「此書他見を禁、若過て禁を犯し、他見洩さば、用を為さざるのみか災害も亦到来せんのみ、謹て誌す」とあるように、きわめて重大なものなのである。

内容頂日は、次の8力条からなっている。

  1. 那珂の港再興の事
  2. 会瀬の泊再興の事
  3. 塩浜再生の事
  4. 楮木耕作及紙漉職業勧進の事
  5. 仕立物の上枕
  6. (表題なし)
  7. (表題なし)陶器の事。鋳銅瓦の事を記す
  8. 船舶の国家の長器たる謂を論ず

第一條にいう「那珂の港再興の事」とは何か、いったい利明は那珂湊を訪れ、何を見、また何を考え、いかなる策をたてたのであろうか。残念ながら、これが分らない。

というのは、この書物「常陸遊覧不問物語」は、いまだに行方が知れず、これをひもとく機会をえないからである。

かって一本は、藤原松三郎氏が昭和21年に東京の某書肆で求められた写体があった。その概略が『科学史研究』(第10号)に「本多利明と常陸遊覧不問物語」として紹介されており、これによってようやく右の八ヵ条が分かったという状態である。

もう一本は、これも写本。『国書総目録』(第6巻)によれば、東北大学図書館の狩野文庫に収められている由である。この図書館より、最近手もとに届いた情報では盗難にでもあったのかどうしても見当らぬという返事なのであった。

まばろしの書よ、いったいどこにあるのだろうか。

(広報なかみなと昭和57年2月25日号)

14
堀割河道計面図

寛政11年(1779年)、本多利明が那珂湊を俔察してまとめた那珂港再興「の策とは何か。その著「常陸遊覧不問物語」が不明の今、これを知る一つの手段は、10力月後の12年11月の著述「河立」から推測するほかはない。

「河道」は、本庄栄治郎博士編『近世社会経済学説人系本多利明集』にも収録されており、また茨城県歴史館にも岡沢慶三郎氏の写体が「国易秘策」として収められているので、みることは容易である。

その「河道」の中に、「那阿港は、当時河そこに砂多く溜り出渕と成、船舶入港難成、是を名付了廃港と云」と記載がある。とすれば那珂港の復興策とは、この河口改修策が第一、第二は「河道」に説く遠大な堀割河道計面の結果するところをいうのであろう。

この堀割河道とは、のちの大谷川堋割計画と同じく、涸沼~大谷川~天野原~鉾田川をつないで河道とし、那珂港と江戸品川まで水路によって結びつくる大計画である。

「河道」はいう。「那阿港より同国鹿島入江へ河船通用する様に仕懸すれば、那珂港は関東の諸国におゐて最大の大港と成、関東の諸国は勿論比国西国迄の国産は悉く此那阿港へと入来り、那珂港より河船を用て東都の品川海へ運送するにて有べし」。

そして更に述べる。「東海第一の難所とする鹿鹿島の要害為に那珂港を再興するを先務とすべし。平方の泊も会瀬の泊も銚子の港も第二の沙汰にて……是非に修理せで協はぬ場所は那阿港也」。

新河道ができれば、「那阿港は則江戸品川海の東河口と成、東国北国九州西際迄の国産は、北海の欲海を渡海して東海へ出て、此東河口へ向て渡海する様に風俗立替るにて有べし。当時の兵庫津及大坂港の隆勢を此那阿港へ遷転する仕方なり。是を名付て仕向とも仕懸ともいふて是非共にせで協はぬ国務也。左すれば、当時の兵庫津及大坂港の大街道を那阿港へ分勢する密策に叶ふ……」。かくして関八州はもとより、奥州までも豊かになるというのである。

利明はこの工法を詳細に述べ、費用総額を1万6844両と見積った。そして水戸藩の富国繁栄の秘策は、当面この堀割河道新説の一点であることを強調した。

利明から「常陸遊覧不問物語」を受け、さらに「河道」の大論文を精読したであろう立原翠軒と小宮山楓軒の師弟はどうしたか。惜しむべしそのころ、大日本史争論言両名は史館を去る。

利明の秘策は、かくて机上プランのままに埋もれ、ひいては那珂港再興案もまた夢物語に終ったのであった。

佐藤次男(市史編さん専門委員)

広告