昭和の記事から~那珂湊市史余話その12

(広報なかみなと昭和56年12月25日号)

萬衛門川と萬人川

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萬衛門川船溜り付近

近世、那珂湊が水上交通万重要な港として機能するに伴ない。那珂川口の改修と港町としての整備問題が起ってくる。これにはさまざまな計画があり、また実際の上水工事もあった。

まず、内川水路の整備から入ろう。那珂川囗でハシケに積み替えられた荷物は、陸地へ揚げられて廻船・海産物問屋などの倉庫へ納められ、再び各地へ運送される。この場合、上川筋(那珂川上流域)や涸沼川から江戸へのルートが多くとられるが、いずれにしろ物資は利便のよい所へ蓄積することが必要になってくる。

そこで那珂湊の雨宮新八郎は、水戸藩営の穀会所創設を考え、藩の許可を得て、寛政8年(1796年)これを建設した。もと専売公社湊出張所(海門町)の所で、事務所及び倉庫群からなる。これと同時に、那珂川から穀会所に至る水路(運河)開さく工事も行われた。小川から辰ノ囗に至る長さ324間、幅4間の水路で、東の先端には船溜りが設けられた。

この工事は湊村清吉の請負であったが、実際の工事に功労のあった土工萬衛門の名をとって、水路は萬衛門川と名付けられたのである。

では、このとき初めて水路が堀られたのかというと、疑問の点がある。水路工事と同時に架けられた橋を萬衛門川橋というが、その以前は洗橋といったという。であれば、既に小川か水路が存在したことになってくる。

また享保8年(1723年)の大洪水で祝町側にあった水戸藩の御舟庫は、公園下のこの水路の北側に移っている。すると、藩の軍船や遊憩船はとこから御舟庫へ入ってきたのだろう。

当然、寛政8年以前にも水路の開削があったと考えられるのである。だがその明確な史料はみつかっていない。

ただ一つ、「湊村古記雑書」(那珂湊市史料第一集所収)に、示川新川堀覚」として「新河川袋卜申所より小川柳町と申所へ堀候此場所三百六十間余二て右川岩船へ付あたり申候」という記事がある。

これは徳川光圀の命で元禄12年(1699年)末から翌年3月の工事で完成、請負は枝川村万「久の丞」、人足3万余人であった。この新川堀がのちの萬衛門川と重なるかどうかは、今後かなりの検討を加えないと判断できない。

ところで、地元の大は萬衛門川のことを「マンニンガワ」という。この地方では、吉衛門を「キッチェム」などというからこの類だとすれば、それまでだが、堀川を作るのに萬人を要したからだという口碑も見逃せない。橿原神宮のことを今でも人々は「カジワバラ」さんといい、この伝承の方が柏原明神の存在を証明しているのだから、こうした言語伝承は重要な意味をもつのである。

いったい、萬衛門川か萬人川かご存じの方、史料をお持ちの方は教えてくださいませんか。

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