昭和の記事から~那珂湊市史余話その11

(広報なかみなと昭和56年10月26日号)

海辺の聖地

11
旧那珂川口の暗礁

那珂湊市の海岸には、人ふさまざまの磯があり、それが海辺に屹立し、海へ向って突出し、怒涛が激突して天空に浪の花散る景観は実に雄壮で美しい。

陸地にさまざまな地名があるように、海辺の磯や磯と磯との間の場所にもすべて名があるのだと気がっいたのは、20余年ほど前のことで、海辺に住みながらまことに愚鈍なことだった。

地名が「大地に刻まれた歴史」であるならば、当然海辺の名称からも郷土の歴史を探ることが可能なはずであろう。そう考えて、潜水漁業の方々から名称の採集を開始した。古い記録も併せると、その数は現在150余に達している。

その結果、一つ一つの磯の名がどうしてつけられたか。そこにどのような歴史や伝説があるか、その磯に祖先たちはどのように接してきたか、徐々に分かってきたのである。

前回までに、神仏の漂着した磯祭扎に神輿が浜降りする磯を述べてきた。これが「神磯」であり、「海辺の聖地」といわれるところである。海辺の聖地は、護摩壇石やお腰掛石四外にもある。
例えば、磯崎・阿字ヶ浦沖の船神磯、平磯町の明神磯、竜宮、マンボ磯、源次郎・万次郎磯。那珂湊の明神磯、牛瀬磯、田所磯などである。市外の北茨城市、高萩市、日立市、大洗町の海辺でも、いずれ’も神磯があり聖地をもっている。

特徴として、①漂着神仏の伝説がある。②浜降り祭がある。③竜宮伝説や神の伝説がある。④竜宮の使者である、亀、サメ、シャチなどと関係がある。⑤礼拝、祈願の対象とされる。⑥付着するアワビや海藻を採らない。などをあげることができよう。
こうした海辺の聖地に対してきた祖先の伝承や態度、つまり、自然があって人と町の生活があるということを、もし全面的に否定したらこれは危険である。

それはともかく、旧那珂川口にあった田所磯について記そう。この磯は、現在の水産高校下あたりにあった暗礁である。もし岩頭が水面上に現われることがあれば、激浪が起こるともいわれ、土地の人は、神磯と呼び、またタデゴン磯といっていた。

昔、日本武尊東征のとき、乗船がこら磯に乗り上げてしまったが、従者の一人田所という怪力の者が船を持ち上げて通航したので、この名があるという。江戸時代心書物『事蹟離纂』に、「湊の和田に田所磯と云所あり。古老伝へ云、此磯は昔倭建命東征の時、船開し給ひて陸奥に至りましし地なり。昔は9月15日の祭に御輿を船に乗奉り、那珂川を経て、田所磯に至る例なりしが、争論の事ありしより、此事やみたりとぞ」とあるから、水戸市吉田神社もここへ浜降りしたことがわかる。

なにしろ水面下の暗礁のため、船舶の通路に難があるということで、明治5年神奈川県の人が爆破を試みたが失敗。同15年、県の依頼により海軍軍人と英国人が爆砕し、ついに除去された。

しかし、この頃から隆盛をきわめた商港那珂湊には、衰運の激浪が襲ってきたのであった。

佐藤次男(市史編さん専門委員)

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