昭和の記事から~那珂湊市史余話その10

(広報なかみなと昭和56年8月25日号)

浜降り祭

10
お腰掛石の前でもむみこし

天満宮の祭礼には、なぜ神輿が社を出て、わざわざ和田町のお腰掛石まで神幸されるのであろうか。

郷土の伝承は、これに答えていわく。昔、和田町に金兵衛なる人かおり、ある夜、海岸に光がかがやく像を得た。不思議に思って一夜を磯の上に安置したところ、神のお告げがあり、吾は菅原道真である。この地に祀れとのことで天満宮を創建した。祭はこの故事により、神出現のお腰掛石まで神幸するのであると。

天満宮の存在は、文和5年(1356年)の記録にさかのぼり、祭礼の記録は、寛文3年)1663年)が初見で相当に古い。だが、現在のような祭礼形式がいつから行われたかを示す明確な史料はなく、この辺は、目下編さん中の「那珂湊市史料(祭礼編)」で明らかにされようとしている。

ところで、このように神輿が海辺や海辺の磯へ神幸されるという祭礼形式は、実はわが郷土のみの独占物ではない。浜降り祭、磯降り祭り、磯出祭などといわれて全国津々浦々にあり、県内でもきわめて多い。例えば北茨城市の佐波々地祇神社・花園神社、高萩市の八幡神社、十王町の黒前神社、日立市の神峰神社、水府・金砂郷村の束・西金砂神社など優に五十社を数え、供奉する小社を併せると百社を越すことになるだろう。また海辺に限らず、湖沼河川の沿岸でもこの形式の祭礼がある。

浜降り祭の形式で、かって那珂湊の海辺へやってきた神々は、ヤンサ了における那珂郡33郷とも48力村ともいわれる諸神社があり、また平磯海岸への瓜連町静神社、津神社への桂村岩船神社、田所磯への水戸市吉田神社などがある。

こうした海辺への浜降り祭を観察すると、そこには二つのタイプがあることに気がつく。一つは天満宮のように一社のみの浜降り祭であり、もう一つは、花園神社、黒前神社、束・西金砂神社、そして酒列磯前神社のヤンサマチのように、数村あるいは、数十村が参加して行われる郷社祭的な浜降り祭である。

さて、浜降り祭の意義はいったい何だろうか。もちろん主たる神社のほとんどは、その祭神(神仏混淆の場合は本尊)が、かつて浜降りする場合へ漂着出現したからであるというのは、天満宮の場合とそんなに変わらない。合理的に祭礼形式と神出現の伝説との関係が説明されるわけである。

この他にも、海水でミソギをするためであるとか、束・西金砂神社や黒前神社や岩船神社のような奥地の場合は、山の幸、海の幸との接触交換をしたからといった経済的な理由を考える人もある。しかし、いずれも二義的な理由としか考えられないのである。

追究のためには、祭礼をいつ行うかという期日の問題が重要なのだが、今はこれをおくとして、一つの仮説を述べておこう。浜降り祭の本源には、もっと古く祭に当って神を海から招く思想があったのではないかと思いっのである。これは、社の存在がまだ朦朧たる時代の想定ではあるが…。

佐藤次男(市史編さん専門委員)

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