昭和の記事から~那珂湊市史余話その9

(広報ひたちなか昭和56年6月25日号)

一漂着神

09
天満宮御神体を最初に安置したと伝える和田町の御腰掛石

”「渚」には種々のものが漂着するが、どうせろくな物は無い。加之悉く断片で満足な代物は一個もない……”

国木田独歩の「渚」冒頭の一節である。だが漂着物から流れ木を拾い、海藻を採って生活の助けとした記憶は遠くない。それどころか、私どもの祖先は、この漂着するものの中に、神の訪れを認めていたのである。

海のかなたから神が訪れるという話は、神体漂着譚として知られ、その神を漂着神または寄り抻という。仏については海中出現仏とか引き上げ仏といっている。

さて郷土には、この種の神仏がいかにも多い。土浦の学者色川三中の「野中の清水」によれば、前浜で小池古右衛門が海中から奇石を揚げた。それは神像に似ており、これを筑波町の長嶋氏へおくり、弘化4年、その弟の英文がゆずり受けて奉祀したとある。

著名なのが天満宮、寛文3年の「開基帳」に、それより400余年前の秋7月、海岸に種々の奇瑞があり、菅原道真の神託があって祀られたのだという。のち和田町の金兵衛伝説に発展するものである。

次に、涸沼のほとりから湊村へ遷座した橿原神宮(柏原明神)も「常陸国名所図絵」には、この神体が上世網にかかって、涸沼湖水から出現したと記されている。

那珂湊市内で唯一の延喜式内社酒列磯前神社についても、「鎮守開基帳」に海岩の阿字石(護摩壇磯)に奇瑞があって神が現われ、さらに黄金色に琿く十一面観世音菩薩が出現したとある。

護摩壇磯は、漂着神出現の場所として重要な意味があり、この磯へ漂着した神々はほかにもある。

東海村の豊受皇太神宮は、元禄15年の「常州埴田五所明神縁起」によれば、和銅2年、この石の上に光りがあり、そ心光りは白方を指して留り、土地の老人に夢のお告げがあって、社に祀られたという。また常陸二の宮を称する瓜連町の静神社については、昔護摩壇磯へ海から白いナガモノ(蛇)―お静さまが上り、七里が先へ祀ってくれといったので祀られたのが静神社だ、という話が平磯町の人人の間に伝承されている。

さらに、旧那珂川口の田所磯も、「那珂港名称図画」に、「往古神ノ出現シタル磯ナリト云」とあり、水戸市吉田神社の草創と関係する話が伝えられている。

民間では、平磯町川向の大内家で祀る釈迦像も海から出現したものと伝えられており、このほかにも、海で網にかかった仏像に似た奇石を祀る家のあることが知られている。

このような漂着神あるいは海中出現仏は、単に那珂湊市域ばかりではなく、茨城県内にも、日本全国にも広く存在する。ただ、わけても常陸国には、この種の神仏が多く、柳田国男も折田信夫もこの点をとりあげているのは注目すべきたろう。

それはともかく、この郷土に色濃く伝承される漂着神について、一つだけいえることは、海から神が現われるという、祖先の共通の心情があったということである。

佐藤次男(市史編さん専門委員)

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