昭和の記事から~那珂湊市史余話その8

(広報なかみなと昭和56年3月25日号)

快風丸

水戸二代藩主徳川光圀の事業の一つに、胸のすくような壮挙といわれる、快風丸の蝦夷地探検がある。ところが、このことを記した史料は、大部分が後代のものであるため、謎の問題がいかにも多い。

探検の動機、目的、準備過程、成果等も不明なら、光圀時代の史料には、「大船」「巨船」「御荷船」とあるのみで、快風丸の船名さえ見当らないのである。「まぼろしの探検船」といわれるところまでである。

なぜ同時代やそれに近い水戸藩の記録にないのだろうか。

一つは、明らかに幕府禁令を破る大船建造だったこと。二つは、蝦夷地探検が、松前藩法を越える行為だったことによるだろう。

光圀心隠居後は、もはや探検は継続されず、没後には、船が解体されるのもこの辺の事情を物語っている。

これまでの研究は、後代の記録「快風丸渉海紀事」や「快風丸蝦夷聞書」を主として、水戸藩内の史料のみに頼っていたのであったが、北海道での調査の結果、「福山秘府」の存在を知った。

松前藩家老の日記をもとにした記録で、これに、貞享4年6月1日と元禄元年6月6日の二度、水戸藩の巨船が訪れ、石狩へ行ったことが記されている。光圀の蝦夷地探検は、同時代の記録によってその事実が証明されたわけである。

さて、光圀の大船建造は、寛文6年、同11年にも行われているが、快風丸は、天和2年から貞享2年にかけて、用材を南部から、舟大工を大阪から招いて造られたものと推定されている。その総長27間、横幅9間、両脇の欄干が1間ずつ、帆柱は杉材で18間その本は3尺角、帆木綿500反、櫓は40~60挺立の大船である。

優に500トンを越すだろう。しかも、かつて那珂湊の御船蔵にあった史料によると、観測器、羅針盤、海図等の航海用器具を長崎から取り寄せている。おそらく当時の最高水準の造船と設備であったろう。

第1回の探検は、貞享3年で失敗。第2回は貞享4年で、松前から石狩まで行ったが不充分。

第3回は元禄元年で、かじ取り、帆役など技術者を大阪や長崎から呼び、松前藩への連絡もよく、成功と見られる。

2月3日、快風丸は3年分の食糧を積んで那珂湊を出航、6月6日松前に着いた。

余談になるがこのとき光圀から松前藩主矩広に対して、盆栽心松2株、梅1株、きりしま1株が贈られ、矩広からは、返礼として黒百合1鉢、丹頂鶴2羽、鳥梟1羽が贈られている。盆栽の松1株は、のち松前城跡(公園)で成長し、「鳳舞の松」「黄門心松」といわれていたが、惜しくも大正8年に枯死した。また、丹頂鶴は、その後、西山荘に飼われていたが、ある百姓に殺された。これを那珂湊粢曇閣で裁いた光圀の逸話が残されている。

6月26日石狩着船。滞在40余日。この間現地人との交流、交易をし、石狩川を遡る探検もした。8月6・7日頃出航。15日頃松前着。12月27日に那珂湊へ帰港した。以後蝦夷行もなく、船も壊され、快風丸の船額も焼け、船玉は華蔵院寺中へ納められたという。そして、それから100年も経った江戸時代後期の書物には、長崎から来て探検に参加した人の子孫が、今も那珂湊にいるなどと書かれている。

快風丸の蝦夷地探検は、その動機、目的など、水戸藩にとっての問題もさることながら、那珂湊との因縁がかなり深い。

当然、快風丸の建造場所、解体場所は那珂湊と考えられるのだが、まだそれを記した史料も記録も発見されていない。乗組員の子孫は、いるのだろうか。船玉は華蔵院のどこに納められたのだろうか。

佐藤次男(市史編さん専門委員)

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