昭和の記事から~那珂湊市史余話その7

(広報なかみなと昭和56年1月15日号)

石狩町の礼拝器

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石狩町の礼拝器

北海道石狩町は、札幌市の北、日本海に面した石狩川の河口にある港町である。那珂湊からは、はるかに隔てたこの町を、私は二度訪れている。もちろん那珂湊関係史料の探索が目的である。第1回は昭和49年10月、札幌市で行われた東日本都道県史協議会出席の寸暇を割いて石狩行を強行し、その結果をもとに昭和51年10月、市史編さんとして第2回目の調査が実施されたのである。この時の史料は、すでに「那珂湊市史料第三集」に収められている。

なぜ、石狩町に執着したのだろうか。その理由は三つある。一つは水戸二代藩主徳川光圀の快風丸による蝦夷地深検、二つは大内石可製作の礼拝器の存在、三つは幕末における水戸藩石狩役所の問題、そのいずれもが那珂湊とかかわりをもつからである。今回は、そのうちの二、石狩町の礼拝器について紹介することにしよう。

石狩町弁天町に、元禄2年、漁業豊獲を祈念して創立された弁天社があり、その境内に礼拝器がある。石材は常陸太田市町屋から出る斑石を用い、上面長さ90cm奥行46.5cm高さ39.5cmを測る。正面に隷書で「礼拝器」とあり、右側面に「弘化二年乙巳八月古日 石工水府港大内石可」と製作者名を刻み、左側面には「願主 梶浦五三郎 湖 河長左衛門 森山弁蔵・秋田屋和 次郎 阿部屋林太郎 番人惣中」と銘がある。

これとまったく同じ礼拝器が、同町内にあることが第1回の調査で分かり、資料は2点になった。

現在は2点ともに弁天社境内に保存されている。さて、この礼拝器の願人は、函館、松前などの海産物問屋で、秋味(鮭)漁獲場所の請負人とその配下の請負場所番人である。製作人の大内石可は、父石了とともに水戸藩の御用石工をつとめ、弘道館記碑や水戸八景碑の製作にも関係し、市内酒列磯前神社、橿原神
宮、華蔵院などに作品を残した那珂湊の名工である。また正面のみごとな隷書「礼拝器」の文字は、水戸9代藩主斉昭か、常陸太田市久昌寺の日華上人の筆であろうといわれている。

いずれにしろこの礼拝器は、松前城下や函館万問屋商人と石狩の場所請負人たちが願主となり、なんらかの関係で那珂湊の大内石可へ製作を依頼し、弁天社その他へ寄進したことが判明したのである。

北海道内の港町の神社などにはさまざまの石造物が奉納寄進されており、そこからも北海道と本州各地との交渉を知ることができるのである。ただしこうした資料は、本州の日本海側関係が圧倒的に多く、東日本側は少ない。それが石狩町に2点もあるのだから、この面でも貴重な存在といえるだろう。

だが、どうして石狩町に石可製作の礼拝器があるのだろうか。その史料は未発見だし、弘化という時点での彼我の交渉を物語る史料も今のところ、まったくないのである。ここでは、那珂湊と石狩の関係を二次的にみて、函館、松前商人との関係を第一にすべきだろうか。礼拝器の謎はまだ分からない。

佐藤次男(市史編さん専門委員)

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