昭和の記事から~那珂湊市史余話その6

(広報なかみなと昭和55年10月25日号)

平塚八太夫

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廻船手形鑑札

那珂湊市と石巻市は、姉妹都市です。では両市の歴史的な関係はどうかとなると、磯節の一句が浮んでくるぐらいで、あまり知る人もいないようです。

ところが、両市を結ぶただ一つの史料が、実は石巻市の田代島というところにあった。田代島は、じ石巻市街の南東海上約15km、連絡船で1時間30分かかるところにある面積16平方キロの小島で、古くは流人の島だった。島の仁斗田浜に平塚家があり、そこに「平塚八太夫文書」が残っていた。

平塚家は、すでに寛文のころには、田代島に住み、文化・文化のころには、平塚屋といって小さな廻船業を営んでいた。初代八太夫は文政2年生まれで、幼いときから書が好きで、算法や航海法を学んだが、大きな利益を得るためには、蝦夷地(北海道)との交易をはじめる以外にはないと考えた。

しかし、この地方では、まだ蝦夷地へ航海者もなく困っていたとき、那珂湊の商人、浜屋こと大内家が蝦夷地との取引で成功したことを聞いた。早速、島を出て大内家に奉公した。30歳のときでした。勤勉な八太夫は、大内家の廻船で働き、航海法と商取引法を学び、やがて船頭となり、ついには、持船をゆずられて独立、田代島を本拠として、手広く廻船業を営んだ。もちろん、蝦夷地物産の買付連搬が主で、これが成功して函館にも店をもち、田代島は、弟の善三郎に任せることにした。

浜屋大内孫兵衛、同大内五郎衛門、大内幸吉、大黒屋吉兵衛、磯野屋四方之丞、大木屋乂衛門、柳屋長衛門、万字屋忠八、浜屋平助、米屋伊地知孫一郎らの那珂湊商人と取引をしたほか、仙台藩の蝦夷地産物御用達としても活躍し、その功によって扶持をうけ、裃着用、帯刀御免となった。八太夫は、慶応2年9月、62歳で銚子の地で他界したが、那珂湊商人らと平塚家の取引は、明治中ごろまで続いていた。

ところで、八太夫の使用船の名をみると、その中に得宝丸や宝来丸があった。おそらく浜屋大内家からもらった船でしょう。そして、八太夫が安政5年ごろから、浜屋を名乗っている点もおもしろい。いわゆる「のれん分け」ともいえましょうか。

また、八太夫は、独立したあと那珂湊商人の代理人として海上運送を請負い、八太夫が直接乗るか又は他船は、腹心の船頭金太夫らに任せて全国の港をわたるのであった。今なお田代島の平塚家に那珂湊商人の手形鑑札があるのは、このためです。

那珂湊と石巻=八太夫を結ぶ線は、更に調査を続けているうちに各地の港へとのびていった。

那珂湊の大内家文書の中に八太夫の名が出てくるのはもちろんですが、北茨城市平潟の菊池家文書や北海道函館図書館沖の囗番所史料、そして石川県福浦港の「諸国客帳」にも、常州中の湊から入港した八太夫、金太夫、得宝丸、宝米丸の名を発見することができたのであった。まさに那珂湊ならでは味えぬ史料探索の喜びでした。

佐藤次男(市史編さん専門委員)

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