昭和の記事から~那珂湊市史余話その5

(広報なかみなと昭和55年8月25日)

吉里々々善兵衛

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大槌町吉々々浦

那珂湊の豪商、白土次郎左衛門の江戸時代前・中期における活動を示す史料が発見された前川家は釜石の北、岩手県大槌町吉々々浦にある。前川家の先祖は、相模国前川村の出で、北条氏に仕えたが、小田原落城のため逃れて奥州気仙浦に至り、初代甚右衛門万のとき吉里々々浦に土着したという。

はじめは海産物の集荷を業としたが、二代参兵衛(以後襲名)の元禄ごろから廻船問屋として盛んになり、やがて南部藩随一の豪商に成長した。「吉里々々善兵衛」といわれ、「三都に名の聞えし善兵衛」と記されたり、また、紀国屋文左衛門と富を競った小説もあるほど有名である。隆盛の頂点は45代の寛保・宝永期で以降はさしもの前川家も衰退の方向をたどっている。隆盛のころの取引先は、全国諸港60ヵ所におよび、多くの手持船を有したが、このうち明神丸は、千石積の大船であった。廻船業のほかには、漁業、金融業、酒・味噌醸造業なども経営し、吉里々々浦の人々は、そのほとんどすべてが前川家に隷属していたのである。
この前川家の史料は、今、大部分が水産庁水産資料館の所有に帰し、自宅には一部が残るのみである。ぼう大な前川家文書は、三陸沿岸随一の好史料といわれ、これまでにも多くの研究者に利用されてきた。その成果である諸論文から那珂湊関係史料が含まれていることを知った那珂湊市史編さん室では、昭和47年に調査を実施し、多大の成果を得たのであった。

前川家と取引のあった那珂湊の商人は、白土次郎左衛門のほか、白土市之尉、同勘次衛門、近藤長四郎、同長右衛門、いせや吉左衛門、同八郎平、同太兵、叶屋又四郎、梅屋権重郎、大久保平兵衛、磯野四方之丞、樫村東藏、大内利三郎、大坂屋与兵衛、土佐屋栄蔵、いつつや徳兵衛、南部屋惣太夫、材木屋与茂七、布施屋などで、とくに白土家の衰退に代って主な取引相手となるのが、近藤長四郎であることが明らかになった。

ところで、前川家が南部藩随一の豪商となった理由は何だろう。

これには、邪珂湊の白土次郎左衛門が密接に関係する。はじめ白土のもとで海産物の集荷に当たり、白土の指示で行動していた善兵衛は、元禄6年(1693)、さきに白土が獲得していた南部藩の水上運輸請負、船役御免の特権を譲り受けたのであった。以後、前川家は、急速な発展をみるわけである。この前川家を訪れて、その氏神や墓所を参拝して、あっと驚いたことが一つある。その家紋は丸に二字引き、俗にいう釜ぶたではないか。那珂湊の白土家の家紋も同じなのである。これを全くの偶然としてよいのだろうか。聞くと前川家には、丸に二字引きの表紋と、五、七の桐の裏紋があるという。すると、前川家本来の家紋は裏紋の方で、表紋の方は、何等かの関係で白土家から譲られたとはみられないだろうか。一寸行き過ぎた考えだが、どうもその辺に白土家と前川家の密接な関係の謎があるように思えるのである。

佐藤次男(市史編さん専門委員)

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