昭和の記事から~那珂湊市史余話その4

(広報なかみなと昭和55年6月25日号)

白土次郎左衛門

江戸時代に門閥七姓のうちに数えられた白土家は、那珂湊草分けの豪商であったが、明治16年の『那珂湊名所図画』にも、「是ハ本分不詳」とあって詳細がわからない。しかし、かつて繁栄したといわれる那珂湊の歴史を知るためには、その基盤となった商業や、そこに活躍した商人や商家の状況を追求する必要がある。ところが永い月日のうちには、商家も衰退し、史料も失なわれて、実際の商業活動を知ることは、なかなか困離なのである。

まず、白土家について、市内に残された断片的史料をまとめると次のようになる。

白土家は、那珂湊の二町目にあり、家業は、廻船問屋で代々次郎左衛門を襲名し、水戸藩主湊村御成の際には、御目見えの家柄であった。南部侯から拝領の本材で建てた豪壮な家屋があり、藩主頼房や光圀も宿泊所としたことがある。しかし、承応2年、文政元年、天保12年と火災に遭っている。

幕末の当主は、15代を数えており6代目貞休は、紀州から魚網を買人れ、鰯漁を行って利益をあげたこともある。11代のとき、船庄屋となり、また、秋田、南部、棚倉藩から、それぞれ扶持を得たが、幕末期には、すでに那珂湊の上層商人から脱落している。白土家の墓は華藏院にあった。だが、あったはずの墓石は、忽然と消えていたのである。かくて白土家の追求は、昭和47年からはじめられた。ようやく、内原町中原に子孫がおり、墓石は、その地に移されていることが判明した。

残念ながら、ここでも系図も史料も残っていなかった。わずかに墓碑銘から白土家の祖先は、白土摂津守正明と袮し、奥州岩城に住んだが、天正中に乱を避けて湊村小川に来たり、商業をはじめ、5代目若狭のとき二町目に移ったことがわかった。市内県内の史料で知り得たのは、ここまでが限度であった。

これより前、岩手県内に白土氏に関する史料が存在するという情報が入手されていた。これも47年に調査を実施した。一つは、盛岡市公民館にある南部藩雑書、一つは、大槌町吉里にある前川家文書である。寛永21年から天保12年に至る192冊の南部藩雑書、ぼう大な数の前川家文書を調べてみて、市内では、知り得ない、しかも江戸時代前期の那珂湊商人の実態が次第に明らかになってきた。白土次郎左衛門(五代か六代ごろ)は、正保4年(1647)すでに南部藩と接触しており、海上輸送の船宿を営み、寛文9年(1669)には、南部藩の海上輸送を請負っているのであった。この権利は、南部の地元や江戸等の商人と「せり」で勝負し勝てば海産物の流通を一手に支配することが可能になるものであった。こうした白土次郎左衛門の南部藩内における活躍は、それから元禄、享保、正徳のころまで続いたが、やがて経営難と地元商人の台頭によって、その権利をゆずり文政年間には、衰退してしまう。

そのころ那珂湊では、他の商人が代って活躍をはじめていたのである。

佐藤次男(市史編さん専門委員)

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