昭和の記事から~那珂湊市史余話その3

(広報なかみなと昭和55年3月25日号)

部田野・平磯・柳沢

03
那珂湊補陀洛渡海記

酒列磯崎と同じく、古代地名の残存するのが「部田野」である。

大化改新によって常陸国が設置されたとき、その下には、更に郡郷(里)がおかれた。平安時代の「倭名抄」によれば、那賀郡は22郷を有する大郷であり、今の那珂湊市域は、幡田郷と岡田郷に柑当する。阿字ヶ浦、平磯、部田野、湊が幡田郷に属し柳沢、美田多、岡田郷に属していたであろう。

幡田郷の遺称地が部田野であり、岡田郷の遺称地が岡田(勝田市三反田内)であることは、既に江戸時代に中山信名が『新編常陸国誌』の中で考証している。ハタもへ夕も同じ意味で、音も通うからである。幡田(郷)から部田野への移行は、中世の「総社神社文書」や「鹿島神宮文書」などに出る「戸田野」あるいは「戸田野郷」という文字を仲介することによっても理解されるのである。

戸田野の田数は25町1反300歩、常陸大禄平氏一族が領したが応永33年(1426)、水戸城を江戸氏に奪われてから、この地方は、その支配下に入った。戸田野郷支配者の居館は、今の部田野地内であろうか、館山であろうか、まだ判断できない問題として残されている。

ところで、江戸氏支配下のころの「鹿島神宮文書」を検していると鹿島神領油免に関係して、「平磯・和田」の文字が目につく。

古くこの文書を撮影しながら気づいたことではあったが、郷土の地名とは決めかねていたのであった。しかし、鹿島郡内には求められないし、また江戸氏との関連から、郷土の平磯・和田とするのがもっとも妥当だとの結論を得た。

これが独創とばかり思っていたら、すでに中山信名が『新編常陸国誌』で、宮本元球が『常陸郡郷考』の中で述べているのを知って先学の学識に驚くと同時に、ますます間違いないと信ずるようになったのである。

こうなると、これまで秋田県立図書館蔵の「文録五年御蔵江納帳」という文書にある「平磯」が、史料に出る平磯の初出であったのは更にさかのぼることになったわけである。

さて、佐竹氏が水戸城の江戸氏を追ったのは、天正18年(1590)であるから、これはまだ江戸氏支配の戦国の世、常澄村の六地蔵寺に恵範上人という人物がいた。

戦乱俗世を避け、洞穴の中で読書勉学をしたので、土竜上人ともいわれた学識僧で、多くの書物を残している。その中の「那珂湊補陀洛渡海記」が徳富蘇峰の文庫中にあり、現在、神田のお茶の水図書館にあるはずだと、東京大学史料編さん所の菊地勇次郎先生に教えられたのは、もう10年ほど前のことである。早速、図書館を訪れてこの書物に接して驚いた。正しく恵範上人の直筆で、内容は一人の上人が下野から那珂川を下り、那珂湊から生きながら海上へ出て往生をするという物語である。

亨録4年(1532)の作。しかもこの中に、柳沢、和田の地名も見出せたのであった。お茶の水図書館が、男子禁制と知ったのは、その感激の直後である。

佐藤次男(市史編さん専門委員)

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