昭和の記事から~那珂湊市史余話その2

(広報なかみなと昭和55年1月15日号)

湊と那珂湊

02
聖経奥書(六地蔵寺所蔵)

湊町を那珂湊町と改称したのは昭和14年の大内義比町長の時であった。ミナト町は、どこにもあって、まぎらわしいという意見は萠からもあったので、かって繁栄していたころに一般に使われていたナカミナトという呼称に改め、町制施行50周年を記念すると共に町の大発展を期そうとしたのがその意図であった。

たしかに、行政上は明治22年まで湊村であったが、江戸時代の史料には常州中の湊とか仲湊とか記されることは、しばしばである。それでは、この地域をミナトなりヘナカミナトと記した史料はいったいどこまで、さかのばれるであろうか。すでに天保のころ。『新編常陸国誌』を稿した中山信名は、鉾田町鳥栖無量寺にある康永3年(1344)の文書を採り上げ、その中にある「浦津浜湊河海」の浜は前浜、湊は那珂の湊なるべしと記している。この史料が湊と記されたもっとも古いものになるが、残念にも今は同寺に見当たらない。現存するのでは常北町小松寺にある文安2年(1445)の印信で、「湊華蔵院」とあるのがこれに次ぐ。

また、秋田県立図書館蔵秋田藩採集文書の文録5年(1596)の記録にも「湊」とあるから、文録3年の太閤検地の際も湊村であったと推測される。これが行政上の正式名称であったろう。

ところが、「那珂湊」という名称も中世にまでさかのぼるのである。すでに早く、井上義氏は宮古市に「那珂湊」と記した文和5年(1356)の史料があるらしいという情報を入手されていた。これは宮古市長根寺に旧蔵されていた大般若経第570巻目の奥書で、「常州吉田郡那珂湊天神別当坊住侶」である「頂範」なる人物が写経したものであることが、後に市史編さんの調査で確認された。

それより前の昭和45年9月東大史料編さん所による常澄村六地蔵寺の調査が実施された。昭和2年と3年に行われた同寺史料の大調査に次ぐもので、その折、未調査であった聖経断簡もすべて調査されたのであったが、ぼろぼろになった写経文の奥書に「那珂湊」の文字が出現し、参加していた私は驚喜したのであった。

史料は数点あり、例えば「于時文和四年十一月廿六日常州吉田群那珂湊書写之孕 妙範」とか、「文和五年卯月二日於那珂湊柏原普観寺書写之 妙範」などとあり、宮古市長根寺旧蔵史料と同時代、「那珂湊」の文字は、一年さかのぼることができたわけである。

その後は、六地蔵寺恵範上人が亨禄4年(1532)に著わした「那珂湊補陀洛渡海記」という書物を、東京のお茶の水図書館で見出すことができたから、湊も那珂湊も江戸時代以前から使用されていることが確実となり、併せてほとんど史料のなかった中世の那珂湊の様相も少しは明らかにされるようになったのである。また、那珂湊の文字の追求によって、同時にこの地が、すでに中世から「港」として機能したことが知られたのである。これらはすべて、市史編さん開始後の成果と言えるだろう。

佐藤次男(市史編さん専門委員)

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