昭和の記事から~那珂湊市史余話その1

(広報なかみなと昭和54年10月25日号)

酒列磯崎

01
酒列磯前神社

”あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今さかりなり”
と詠まれた奈良の都心平城宮址が発掘され、そこから、昭和36年以降、2万点以上にものぼる木簡が出土しており、常陸国関係のものも数点ある。その中の一つは奈良国立文化財研究所昭和38年発行の「平城宮第十三次発掘調査出土木簡概報」に”常陸国那賀郡酒 埼所生若海藻”とあり、44年発行の『平城宮木簡一には、”常陸国那賀郡須 埼所生若海藻”とある。この木簡は、昭和38年の発掘の際、発見されたもので文字は墨書、年代は天平18年(746)と推定されている。長さ22.1cm、幅2.3cm、厚さ3mmの木札で、諸国から貢進された品物の付札の一つである。

それでは、常陸国の那賀郡のどこか。「酒□埼」か、「須□埼」の部分が解読できればよいはずである。ところで、那賀郡下でワカメ等の採藻地といえば、現在、延喜式内社酒列磯前神社のある那珂湊市磯崎一帯の海岸が著名である。

酒列磯前神社は、大洗磯前神社と共に古く、記録は天安元年(857)にさかのぼることができ、かつては、「酒列磯崎」、「大洗磯崎」の地名があったろうと推定していたのであった。
従って、「酒」か「須」は、やはり「酒」。「□」の一字は「列」か「烈」であろうと考えたのであった。この疑問について、現在、東京大学史料編さん所長である菊地勇次郎氏にお話をしたところ、早速、奈良の研究所にいる狩野久氏に紹介の労をとっていただき、ほどなく狩野氏からの回答がもたらされた。その内容は、同研究所平城宮跡発掘調査部で再検討の結果、「須」としたのは「酒」の誤りであり、「□」のところは、わずかな墨痕ながら「烈」と読むことができるというものであった。

更に関連して、もう一点、上半部が折損した木簡で、「烈埼所生若海藻」という前資料と同一筆蹟と思われる資料があることも判明した。すなわち、”常陸国那賀郡酒烈埼所生若海藻”と墨書された木簡は2点、「酒烈埼」は「酒列磯崎」と同一とみるべく、天平18年に、那珂湊市磯崎一帯の海岸から、遠く奈良の平城宮までワカメが貢進された事実が明らかになったのである。

この事実から、更に次の謎も解けてくる。平磯から磯崎へかけての海をみはるかす台地上には、百数十基にもおよぶ県内屈指の古墳群がある。この時代は、すでに、稲作農業を主な生産基盤としており、一般に古墳の多くは、水田地帯をのぞむようなところに造らおているのが普通である。ところがこの地の古墳は、海をのぞんで群集している。そうするとおそらく古墳群の被葬者たちは、この地域を支配し、豊かな海の幸を掌握した地方豪族とその一族、そして海で生活する人々であったのではなかろうか。那珂湊古代史の一コマはこうしてよみがえったが、一方、古墳の数は、年ごとに減少し、わが郷の歴史は消えつつある。

佐藤次男(市史編さん専門委員)

広告