勝田の伝説チヂランプウは史実か(昭和の記事から)

市報かつた昭和48年10月10日号から

勝田市の祖先の遺産『虎塚古墳』が発見され大きな反響を呼びましたが、これは事実そのもの。ところで、この勝田市史の上に強烈な印象をうえつけた事実とは別に、勝田市史のなかで解明したい歴史的伝説があります。それを「チヂランプウ伝説」と呼んでいますが、事実なのか、あるいは単なる伝説なのか、さる昭和48年8月24日の夜、この問題をとりあげて行なわれた市民大学の講演の概要を、ここに再録してみましょう。

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これから話すのは、馬渡や長砂あるいは阿字ヶ浦の人々の閧に伝わった話です。阿字ヶ浦と、村松のちょうど中間に、沢田というところがあります。ここにはかつて青塚、二亦、大塚という三つの村がありました。そこは、前が1000軒、後が2000軒ほどの部落だったそうです。
1000 ところがあるとき、秋の8月15日から75日間にわたって、東北の大風が吹き荒れ、三つの村の家々はあるいは倒壊し、あるいは砂に埋没して住むことができなくなってしまった。そしてそこの住民は三つの村に分れたといいます。一説にはその一つが横道であり、さらに馬渡、前浜の三つ、そこに移住したといわれています。もう一説では、青塚村と二亦村は馬渡へ、大塚村は前浜に移住したといいます。そして、この大風を名づけて、土地の人は「チヂランプウ」または「チヂランプン」と呼んでいます。

この台風−チヂランプウが吹き荒れたのは、一体、いつごろかといいますと、これかまたいろいろあって、平磯町郷土史や黒沢家氏神の記念碑には元和2年と出ています。その他の記録では、同3年、同初年、同末年、寛永18年などいろいろです。

この伝説に付随して、伝説を証拠づける話もいくつか残っています。その一つは、馬渡下宿の成等寺で、この山号を青塚山といいます。そして、ここの住職はいまで青塚姓を名乗っています。それはなぜかというと、青塚から移ったためだといわれています。もう一つは馬渡中宿の不動尊、この山号は沢田山といいます。これも沢田から移ってきたからだといわれます。その他、常澄村の仏性寺も沢田からあがったといわれ、その証拠に今でも前浜には仏性寺の壇家があります。そのほか、このようなチヂランプウ伝説を証拠づける伝説が、那珂湊の阿字ケ浦や勝田の馬渡には数多くあります。以上が伝説チヂランプウの大要です。それではつぎに、この伝説のような事実かあったのかどうかを検討してみたいと思います。

まず第一に、沢田付近に、大塚村か青塚村、あるいは二亦村が存在したという記録かあるかという問題です。しかし、この点については、残念ながらそうした名称の部落があったという直接の資料は見当りません。ただ、馬渡に残っている寛永12年の棟札に、青塚村、二亦村と書かれたものがありますが、これは後世につくられたものではないかと思われます。これが当時のものかどうかは検討を要することでしょう。

したがって、これらの部落は、記録上は不明の部落ということになってくるわけです。

それから、伝説の中にある前田に1000軒、後田に2000軒ということばはどうかといいますと、これはほかにも各地にあり、人家が密集して繁盛した浜を表現するものだと考えられます。

それはともかく、この1000軒あるいは2000軒の部落が、天変地異によって消滅した例があるかというと、北茨城のナガラ千軒は大津波で、高萩のアカハ夕千軒は高波で消滅したという例があります。また、それでは砂丘地帯にあって消滅したものはどうかというと、波崎町の例をはじめ、これも全国各地に見られます。それらのものと、チヂランプウ伝説も根本的に類似しているのです。

さらに第二の問題としては、各種の本にある、元和初年、2年、3年などといわれているチヂランプウに相当する大風が、現実にあったかということがあげられます。

これについても、県に残っている資料の中には見当りませんでした。ただ徳川実記の中に、これがそうかと思われるものかありました。要約すると「元和3年4日10日(1916年5月14日)昨夜より大風雨。12日、風雨なら止まず。入間川、千佳の大川洪水となり、大橋も流され:人馬溺死するものあり。未曽有の大風雨とて、衆人驚がくす。」とあります。4日間の大暴風です。これが元和という伝説の年号と、記録の台風とが、つき合わされるものではないかと考えられます。

それでは、第三の問題として、秋の8月15日から75日の間というのは何かということになります。これは、8月と9月が暴風の季節ということから、昔、大風があったという話が台風を連想させ、台風なら秋。それを8月15日としたのではないか、こういうふうに想像できます。また、75日というのは、人の噂も75日とか、良いも悪いも75日、といわれるように、数の多いことを表現する場合の具体的数字であると考えて間違いなさそうです。

さらに伝説の中に出てくる東北の風とはどういうことかという間題もあります。これは、この地方の風向きは、年間を通じて東北風が多く、これが三つの村を埋めたといわれる砂丘を形成する上で、重要になっていることを示すものといえます。

それから、伝説の中で残っているもう一つの問題それは、チヂランプウという名称です。このような名称はなぜついたかはわかりませんが、みなさんが知っているもので、これに類似したことばとしてマジナイことばがあります。子どもがけがをしたときに親がとなでてやる「チヂンプイプイ」「チヂランプン」などです。地方によって違いますが、全国的にこれと類似したことばが出てきます。その中で、チヂランプウ伝説のチヂランプウと、ほとんど一致する使い方がされている地域の分布圈は非常に重要なことだといえます。

チヂランプウ伝説が、どういうふうに分布しているかをいままで調べたところでは前浜、馬渡長砂を中心としており、東海村の照沼でも、祖先が東の海岸から移ってきた、あるいは東海村の宿や真崎の荒谷、そこにも海岸から移ってきたという話が残っています。

そしてこれは伝説ではなく、村松の虚空蔵尊の古文書に元和9年のものがあり、その中にはつぎのような重要な記事があります。

内容は「村松東方の百姓おる屋敷、毎年、砂に引き埋められ、迷惑申し候間、御神明のうち、松の一本もこれなき空地御座間、これなき屋敷に立て申し、移り申したき由……」ということばがでてくるのがそれです。そしてそれが許可されています。つまり、ここでは明らかに、東の海岸かつて住んでいたものが、現在の地点に移されていることがはっきりするわけです。

以上、多少こまかく伝説をつっこんで話しましたが、もう一度、これを整理しますと、馬渡、長砂、前浜などの人の先祖は、東方の沢田付近に住んでいたものが、大風によって埋められ、住めなくなったので移住したというものです。そして、その移住の事実あるいは埋められた事実、または部落の存在、これらは漠然ではあるが本当にあったのではないかと考えられるような気がします。

伝説は、こういう状況ですが、それでは現地はどうなっているかということについて、ふれておきましょう。

現地は、今まで米軍の射爆煬の中という状況下にあり、思うような調査ができませんでしたが、念願がかなって、10年前に現地を訪れ調査することができました。

大塚村、青塚村の存在は、爆撃によって、どこなのか不明でしたがそのとき、これらの塚は、いずれも風積丘であって、古墳ではないだろうという想像ができました。

そして、この辺りに遺物がないものだろうかと、探しました。その結果、私はここで大変なものを発見しました。砂丘と砂丘の間に点々と存在する人骨の群と、その間に土器や古銭があったのです。

これらの遺物を、他の例と比べてみると、人骨、土器、古銭の三つの組み合せは、多くの場合、墓地だということになり、沢田も、住居跡や城跡ではなく、墓地であり、その年代は中世から近世初期の間のものだということがわかりました。

この調査の結果、確かに、そのあたりに江戸時代初期まで、人が生活していたことが考えられました。しかし、その後は多数の人々の集団の存在は考えられません。すなわち、かつて生活していた人々が、突然に姿を消したと考えられるのです。そこに、伝説の背景があるのかもしれません。記録上失なわれた大塚、青塚、二亦らしい部落の存在は、墓地の存在からして、おそらく事実らしいと考えられます。そして、その時期は、大風のあった時に相当すると思われます。

そうすると、その存在したはずの集落がなぜ消滅したか。砂に埋められるのは仕方がないとして、当時の人にその防止方法か考えられないわけがない。このように考えると、風と砂の他に、消滅するか移住するかの必然性がなければならない。そこに彼等の生業か、問題として出てこなければなりません。

茨城県の砂丘地帯に人が住みついたのは、奈良時代まではあまり見られません。また海辺の集落もあまりありません。それなのに砂丘地帯に住みついた人かあるのはなぜか。これは、おそらく製塩が必要になったからだと考えられます。それが、時代とともに瀬戸内海沿岸などの製塩業が発達すると同時に商品流通が発達したため、沢田あたりはその必要性がなくなった。それらが、移住の背景にあったといえると思われます。

そして、徳川実記にある大風や、砂丘の盛んな形成期にあったことなどと、元和3年の大風の史実とがからみ合って伝説のもとになったのではないでしょうか。

ところで、いろいろな伝説の中には、海から神が陸に上るという話が日本には多くありますか、チヂランプウもそれと同じ形をとっていることがわかります。この種の伝説は県内にも磯崎神社や酒列神社・虚空蔵尊などたくさんあります。これは神体漂着譚と呼んでいる話の形です。そして、これは海辺の民の必然的な信仰であり、信念であると思わざるを得ません。

茨城県市史編さん委員 佐藤次男

以上

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