平成27年中に読まれた記事ベスト20

「市報ひたちなか〜まちの話題ブログ」をご覧いただきありがとうございます。平成27年中に読まれた記事のベスト20は次のとおりでした。

順位 タイトル ページビュー
1 水戸対地射爆撃場返還の歴史 1,915
2 新しいご当地グルメが誕生「ちちんぷりんぷりん」 1,600
3 平成27年10月25日ひたちなか市議会議員選挙結果(確定) 1,292
4 湊公園サマーパーティーとBIG WAVE 2015が開催されます 1,171
5 第8回ほしいも品評会_2日目 1,014
6 真新しい校舎と入学式 那珂湊中学校 999
7 剣道中国代表チームが勝田若葉会と親睦交流 950
8 新しい治安の拠点、那珂湊警察センターが開庁 929
9 第1回勝田TA・MA・RI・BA横丁開催 840
10 全国中学校体育大会に出場決定(H27) 838
11 市子連キックベース大会開催 785
12 海の生き物と触れ合える「磯遊び王国」を楽しもう! 702
13 湊線駅名標がグッドデザイン賞を受賞 700
14 勝田の風になったっぺ! 第63回勝田全国マラソン大会開催 674
15 ひたちなかリトルリーグとボーイズが全国大会出場 662
16 佐野中の新しい体育館が完成 642
17 平成27年10月25日ひたちなか市議会議員選挙開票状況23時30分現在 604
18 第69回三浜駅伝競走大会開催 598
19 歌声響け!佐野中合唱コンクール 571
20 市報バックナンバー 551
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平成27年に最も読まれたツィート、ベスト20

ひたちなか市は、ホームページのほかTwitterを使った情報発信を行っています。(https://twitter.com/hitachinakacity

平成27年中の”ツィート”へのインプレッション数(ユーザーがTwitterでツィートを見た回数)ベスト20は次のとおりでした。

順位 日にち ツイート本文 インプレッション
1 2015-09-29 湊線駅名標がグッドデザイン賞を受賞 39,126件
2 2015-09-10 【訂正】那珂川の水位の上昇に伴い、避難所を開設しました。
【開設した避難所】
勝田第二中学校,堀口小学校,市毛コミュニティセンター,勝倉小学校,金上ふれあいセンター,三反田小学校,那珂湊コミュニティセンター柳沢館,湊公園ふれあい館です。
31,088件
3 2015-09-10 那珂川の水位が,水府橋において,避難判断水位6.6メートルを超えて
上昇を続けているため,那珂川沿岸地域に,避難勧告を発令します。
避難所は
・勝田二中・市毛コミセン・堀口小・勝倉小・金上ふれあいセンター・三反田小学校・那珂湊コミ柳沢館・湊公園ふれあい館
29,046件
4 2015-09-01 佐野中の新しい体育館が完成 27,649件
5 2015-09-10 【17:15】那珂川の水位が,水府橋において,避難判断水位6.6メートルを超えて上昇を続けているため,那珂川沿岸地域に,避難勧告を発令しています。
◆避難所
・勝田二中・市毛コミセン・堀口小・勝倉小・金上ふれあいセンター・三反田小・那珂湊コミ柳沢館・湊公園ふれあい館
19,108件
6 2015-09-10 大変危険ですので、那珂川には絶対に近づかないようにしてください。 15,312件
7 2015-09-11 勝田三中の新しい体育館が完成 13,374件
8 2015-08-05 サメの目撃情報と市内海水浴場における対応について 12,027件
9 2015-02-16 ひたちなか海浜鉄道那珂湊駅でロケされたドラマが放送されます
■wowowドラマ「天使のナイフ」
小出恵介、倉科カナ出演。
今もっとも注目を集めている気鋭の作家・薬丸岳のデビュー作、第51回江戸川乱歩賞を受賞した話題作の「天使のナイフ」が、日曜の連続ドラマWで2月22日に登場!
10,905件
10 2015-08-28 平成27年度全国中学校体育大会の入賞報告 10,193件
11 2015-09-14 茨城県台風18号等災害義援金の受付を開始しました 9,921件
12 2015-08-11 全国中学体育大会に出場決定(H27) 9,902件
13 2015-10-05 湊公園に時計が寄贈されました 9,065件
14 2015-05-17 ひたちなか海浜鉄道開業7周年記念祭 8,270件
15 2015-09-10 強い雨の影響により,9月10日(木)11:00現在,以下の地区で道路冠水等により車輌は通行できません。
【規制箇所】
○中根地内
中丸川沿い(ねぎ坂下)
○松戸町地内
大川沿い(松戸体育館付近)
○勝倉地内
勝倉橋勝田側交差点から那珂川上流方面への道路
8,062件
16 2015-12-09 市報ひたちなか平成27年12月10日発行第504号 7,773件
17 2015-09-17 気象庁から津波注意報が発表されました。
茨城県沿岸には午前5時30分頃に津波が到達する予想です。
海岸付近の住民の方は海岸に近づかないようにしてください。
【自主避難の受入場所】
●那珂湊第二小●平磯小●磯崎小
●阿字ケ浦小●平磯中●湊公園ふれあい館
7,653件
18 2015-09-10 現在,茨城県全域に大雨特別警報が発表されています。
今後,大雨や那珂川の水位上昇が予想されます。那珂川沿岸及び河口付近には近づかないでください。
今後テレビ・ラジオを付けて最新の気象情報に注意してください。
7,266件
19 2015-09-17 本日、南米チリ沖で大規模な地震が発生しました。
明日18日早朝にかけて津波が到達する恐れがあります。今後の情報にご注意ください。
自主避難の受入場所として,本日午後9時に次の指定避難所を開設します。
●那珂湊第二小●平磯小●磯崎小●阿字ケ浦小●平磯中●湊公園ふれあい館
6,762件
20 2015-10-30 虎塚古墳壁画公開中(H27年度秋季) 6,442件

昭和の記事から~那珂湊市史余話その7

(広報なかみなと昭和56年1月15日号)

石狩町の礼拝器

07
石狩町の礼拝器

北海道石狩町は、札幌市の北、日本海に面した石狩川の河口にある港町である。那珂湊からは、はるかに隔てたこの町を、私は二度訪れている。もちろん那珂湊関係史料の探索が目的である。第1回は昭和49年10月、札幌市で行われた東日本都道県史協議会出席の寸暇を割いて石狩行を強行し、その結果をもとに昭和51年10月、市史編さんとして第2回目の調査が実施されたのである。この時の史料は、すでに「那珂湊市史料第三集」に収められている。

なぜ、石狩町に執着したのだろうか。その理由は三つある。一つは水戸二代藩主徳川光圀の快風丸による蝦夷地深検、二つは大内石可製作の礼拝器の存在、三つは幕末における水戸藩石狩役所の問題、そのいずれもが那珂湊とかかわりをもつからである。今回は、そのうちの二、石狩町の礼拝器について紹介することにしよう。

石狩町弁天町に、元禄2年、漁業豊獲を祈念して創立された弁天社があり、その境内に礼拝器がある。石材は常陸太田市町屋から出る斑石を用い、上面長さ90cm奥行46.5cm高さ39.5cmを測る。正面に隷書で「礼拝器」とあり、右側面に「弘化二年乙巳八月古日 石工水府港大内石可」と製作者名を刻み、左側面には「願主 梶浦五三郎 湖 河長左衛門 森山弁蔵・秋田屋和 次郎 阿部屋林太郎 番人惣中」と銘がある。

これとまったく同じ礼拝器が、同町内にあることが第1回の調査で分かり、資料は2点になった。

現在は2点ともに弁天社境内に保存されている。さて、この礼拝器の願人は、函館、松前などの海産物問屋で、秋味(鮭)漁獲場所の請負人とその配下の請負場所番人である。製作人の大内石可は、父石了とともに水戸藩の御用石工をつとめ、弘道館記碑や水戸八景碑の製作にも関係し、市内酒列磯前神社、橿原神
宮、華蔵院などに作品を残した那珂湊の名工である。また正面のみごとな隷書「礼拝器」の文字は、水戸9代藩主斉昭か、常陸太田市久昌寺の日華上人の筆であろうといわれている。

いずれにしろこの礼拝器は、松前城下や函館万問屋商人と石狩の場所請負人たちが願主となり、なんらかの関係で那珂湊の大内石可へ製作を依頼し、弁天社その他へ寄進したことが判明したのである。

北海道内の港町の神社などにはさまざまの石造物が奉納寄進されており、そこからも北海道と本州各地との交渉を知ることができるのである。ただしこうした資料は、本州の日本海側関係が圧倒的に多く、東日本側は少ない。それが石狩町に2点もあるのだから、この面でも貴重な存在といえるだろう。

だが、どうして石狩町に石可製作の礼拝器があるのだろうか。その史料は未発見だし、弘化という時点での彼我の交渉を物語る史料も今のところ、まったくないのである。ここでは、那珂湊と石狩の関係を二次的にみて、函館、松前商人との関係を第一にすべきだろうか。礼拝器の謎はまだ分からない。

佐藤次男(市史編さん専門委員)

キハ11。走る


ひたちなか海浜鉄道(株)平成27年4月に東海旅客鉄道(株)および東海交通事業(株)から購入した「キハ11」は、このたび認可手続きなどを終え平成27年12月30日から運用を開始しました。

オレンジライン1本のシンプルな外観に”お化粧”したキハ11は、これから延伸計画が具体化していく湊線の未来を背負っていく主力車両として活躍していくことでしょう。

昭和の記事から~那珂湊市史余話その6

(広報なかみなと昭和55年10月25日号)

平塚八太夫

06
廻船手形鑑札

那珂湊市と石巻市は、姉妹都市です。では両市の歴史的な関係はどうかとなると、磯節の一句が浮んでくるぐらいで、あまり知る人もいないようです。

ところが、両市を結ぶただ一つの史料が、実は石巻市の田代島というところにあった。田代島は、じ石巻市街の南東海上約15km、連絡船で1時間30分かかるところにある面積16平方キロの小島で、古くは流人の島だった。島の仁斗田浜に平塚家があり、そこに「平塚八太夫文書」が残っていた。

平塚家は、すでに寛文のころには、田代島に住み、文化・文化のころには、平塚屋といって小さな廻船業を営んでいた。初代八太夫は文政2年生まれで、幼いときから書が好きで、算法や航海法を学んだが、大きな利益を得るためには、蝦夷地(北海道)との交易をはじめる以外にはないと考えた。

しかし、この地方では、まだ蝦夷地へ航海者もなく困っていたとき、那珂湊の商人、浜屋こと大内家が蝦夷地との取引で成功したことを聞いた。早速、島を出て大内家に奉公した。30歳のときでした。勤勉な八太夫は、大内家の廻船で働き、航海法と商取引法を学び、やがて船頭となり、ついには、持船をゆずられて独立、田代島を本拠として、手広く廻船業を営んだ。もちろん、蝦夷地物産の買付連搬が主で、これが成功して函館にも店をもち、田代島は、弟の善三郎に任せることにした。

浜屋大内孫兵衛、同大内五郎衛門、大内幸吉、大黒屋吉兵衛、磯野屋四方之丞、大木屋乂衛門、柳屋長衛門、万字屋忠八、浜屋平助、米屋伊地知孫一郎らの那珂湊商人と取引をしたほか、仙台藩の蝦夷地産物御用達としても活躍し、その功によって扶持をうけ、裃着用、帯刀御免となった。八太夫は、慶応2年9月、62歳で銚子の地で他界したが、那珂湊商人らと平塚家の取引は、明治中ごろまで続いていた。

ところで、八太夫の使用船の名をみると、その中に得宝丸や宝来丸があった。おそらく浜屋大内家からもらった船でしょう。そして、八太夫が安政5年ごろから、浜屋を名乗っている点もおもしろい。いわゆる「のれん分け」ともいえましょうか。

また、八太夫は、独立したあと那珂湊商人の代理人として海上運送を請負い、八太夫が直接乗るか又は他船は、腹心の船頭金太夫らに任せて全国の港をわたるのであった。今なお田代島の平塚家に那珂湊商人の手形鑑札があるのは、このためです。

那珂湊と石巻=八太夫を結ぶ線は、更に調査を続けているうちに各地の港へとのびていった。

那珂湊の大内家文書の中に八太夫の名が出てくるのはもちろんですが、北茨城市平潟の菊池家文書や北海道函館図書館沖の囗番所史料、そして石川県福浦港の「諸国客帳」にも、常州中の湊から入港した八太夫、金太夫、得宝丸、宝米丸の名を発見することができたのであった。まさに那珂湊ならでは味えぬ史料探索の喜びでした。

佐藤次男(市史編さん専門委員)

昭和の記事から~那珂湊市史余話その5

(広報なかみなと昭和55年8月25日)

吉里々々善兵衛

05
大槌町吉々々浦

那珂湊の豪商、白土次郎左衛門の江戸時代前・中期における活動を示す史料が発見された前川家は釜石の北、岩手県大槌町吉々々浦にある。前川家の先祖は、相模国前川村の出で、北条氏に仕えたが、小田原落城のため逃れて奥州気仙浦に至り、初代甚右衛門万のとき吉里々々浦に土着したという。

はじめは海産物の集荷を業としたが、二代参兵衛(以後襲名)の元禄ごろから廻船問屋として盛んになり、やがて南部藩随一の豪商に成長した。「吉里々々善兵衛」といわれ、「三都に名の聞えし善兵衛」と記されたり、また、紀国屋文左衛門と富を競った小説もあるほど有名である。隆盛の頂点は45代の寛保・宝永期で以降はさしもの前川家も衰退の方向をたどっている。隆盛のころの取引先は、全国諸港60ヵ所におよび、多くの手持船を有したが、このうち明神丸は、千石積の大船であった。廻船業のほかには、漁業、金融業、酒・味噌醸造業なども経営し、吉里々々浦の人々は、そのほとんどすべてが前川家に隷属していたのである。
この前川家の史料は、今、大部分が水産庁水産資料館の所有に帰し、自宅には一部が残るのみである。ぼう大な前川家文書は、三陸沿岸随一の好史料といわれ、これまでにも多くの研究者に利用されてきた。その成果である諸論文から那珂湊関係史料が含まれていることを知った那珂湊市史編さん室では、昭和47年に調査を実施し、多大の成果を得たのであった。

前川家と取引のあった那珂湊の商人は、白土次郎左衛門のほか、白土市之尉、同勘次衛門、近藤長四郎、同長右衛門、いせや吉左衛門、同八郎平、同太兵、叶屋又四郎、梅屋権重郎、大久保平兵衛、磯野四方之丞、樫村東藏、大内利三郎、大坂屋与兵衛、土佐屋栄蔵、いつつや徳兵衛、南部屋惣太夫、材木屋与茂七、布施屋などで、とくに白土家の衰退に代って主な取引相手となるのが、近藤長四郎であることが明らかになった。

ところで、前川家が南部藩随一の豪商となった理由は何だろう。

これには、邪珂湊の白土次郎左衛門が密接に関係する。はじめ白土のもとで海産物の集荷に当たり、白土の指示で行動していた善兵衛は、元禄6年(1693)、さきに白土が獲得していた南部藩の水上運輸請負、船役御免の特権を譲り受けたのであった。以後、前川家は、急速な発展をみるわけである。この前川家を訪れて、その氏神や墓所を参拝して、あっと驚いたことが一つある。その家紋は丸に二字引き、俗にいう釜ぶたではないか。那珂湊の白土家の家紋も同じなのである。これを全くの偶然としてよいのだろうか。聞くと前川家には、丸に二字引きの表紋と、五、七の桐の裏紋があるという。すると、前川家本来の家紋は裏紋の方で、表紋の方は、何等かの関係で白土家から譲られたとはみられないだろうか。一寸行き過ぎた考えだが、どうもその辺に白土家と前川家の密接な関係の謎があるように思えるのである。

佐藤次男(市史編さん専門委員)

昭和の記事から~那珂湊市史余話その4

(広報なかみなと昭和55年6月25日号)

白土次郎左衛門

江戸時代に門閥七姓のうちに数えられた白土家は、那珂湊草分けの豪商であったが、明治16年の『那珂湊名所図画』にも、「是ハ本分不詳」とあって詳細がわからない。しかし、かつて繁栄したといわれる那珂湊の歴史を知るためには、その基盤となった商業や、そこに活躍した商人や商家の状況を追求する必要がある。ところが永い月日のうちには、商家も衰退し、史料も失なわれて、実際の商業活動を知ることは、なかなか困離なのである。

まず、白土家について、市内に残された断片的史料をまとめると次のようになる。

白土家は、那珂湊の二町目にあり、家業は、廻船問屋で代々次郎左衛門を襲名し、水戸藩主湊村御成の際には、御目見えの家柄であった。南部侯から拝領の本材で建てた豪壮な家屋があり、藩主頼房や光圀も宿泊所としたことがある。しかし、承応2年、文政元年、天保12年と火災に遭っている。

幕末の当主は、15代を数えており6代目貞休は、紀州から魚網を買人れ、鰯漁を行って利益をあげたこともある。11代のとき、船庄屋となり、また、秋田、南部、棚倉藩から、それぞれ扶持を得たが、幕末期には、すでに那珂湊の上層商人から脱落している。白土家の墓は華藏院にあった。だが、あったはずの墓石は、忽然と消えていたのである。かくて白土家の追求は、昭和47年からはじめられた。ようやく、内原町中原に子孫がおり、墓石は、その地に移されていることが判明した。

残念ながら、ここでも系図も史料も残っていなかった。わずかに墓碑銘から白土家の祖先は、白土摂津守正明と袮し、奥州岩城に住んだが、天正中に乱を避けて湊村小川に来たり、商業をはじめ、5代目若狭のとき二町目に移ったことがわかった。市内県内の史料で知り得たのは、ここまでが限度であった。

これより前、岩手県内に白土氏に関する史料が存在するという情報が入手されていた。これも47年に調査を実施した。一つは、盛岡市公民館にある南部藩雑書、一つは、大槌町吉里にある前川家文書である。寛永21年から天保12年に至る192冊の南部藩雑書、ぼう大な数の前川家文書を調べてみて、市内では、知り得ない、しかも江戸時代前期の那珂湊商人の実態が次第に明らかになってきた。白土次郎左衛門(五代か六代ごろ)は、正保4年(1647)すでに南部藩と接触しており、海上輸送の船宿を営み、寛文9年(1669)には、南部藩の海上輸送を請負っているのであった。この権利は、南部の地元や江戸等の商人と「せり」で勝負し勝てば海産物の流通を一手に支配することが可能になるものであった。こうした白土次郎左衛門の南部藩内における活躍は、それから元禄、享保、正徳のころまで続いたが、やがて経営難と地元商人の台頭によって、その権利をゆずり文政年間には、衰退してしまう。

そのころ那珂湊では、他の商人が代って活躍をはじめていたのである。

佐藤次男(市史編さん専門委員)

昭和の記事から~那珂湊市史余話その3

(広報なかみなと昭和55年3月25日号)

部田野・平磯・柳沢

03
那珂湊補陀洛渡海記

酒列磯崎と同じく、古代地名の残存するのが「部田野」である。

大化改新によって常陸国が設置されたとき、その下には、更に郡郷(里)がおかれた。平安時代の「倭名抄」によれば、那賀郡は22郷を有する大郷であり、今の那珂湊市域は、幡田郷と岡田郷に柑当する。阿字ヶ浦、平磯、部田野、湊が幡田郷に属し柳沢、美田多、岡田郷に属していたであろう。

幡田郷の遺称地が部田野であり、岡田郷の遺称地が岡田(勝田市三反田内)であることは、既に江戸時代に中山信名が『新編常陸国誌』の中で考証している。ハタもへ夕も同じ意味で、音も通うからである。幡田(郷)から部田野への移行は、中世の「総社神社文書」や「鹿島神宮文書」などに出る「戸田野」あるいは「戸田野郷」という文字を仲介することによっても理解されるのである。

戸田野の田数は25町1反300歩、常陸大禄平氏一族が領したが応永33年(1426)、水戸城を江戸氏に奪われてから、この地方は、その支配下に入った。戸田野郷支配者の居館は、今の部田野地内であろうか、館山であろうか、まだ判断できない問題として残されている。

ところで、江戸氏支配下のころの「鹿島神宮文書」を検していると鹿島神領油免に関係して、「平磯・和田」の文字が目につく。

古くこの文書を撮影しながら気づいたことではあったが、郷土の地名とは決めかねていたのであった。しかし、鹿島郡内には求められないし、また江戸氏との関連から、郷土の平磯・和田とするのがもっとも妥当だとの結論を得た。

これが独創とばかり思っていたら、すでに中山信名が『新編常陸国誌』で、宮本元球が『常陸郡郷考』の中で述べているのを知って先学の学識に驚くと同時に、ますます間違いないと信ずるようになったのである。

こうなると、これまで秋田県立図書館蔵の「文録五年御蔵江納帳」という文書にある「平磯」が、史料に出る平磯の初出であったのは更にさかのぼることになったわけである。

さて、佐竹氏が水戸城の江戸氏を追ったのは、天正18年(1590)であるから、これはまだ江戸氏支配の戦国の世、常澄村の六地蔵寺に恵範上人という人物がいた。

戦乱俗世を避け、洞穴の中で読書勉学をしたので、土竜上人ともいわれた学識僧で、多くの書物を残している。その中の「那珂湊補陀洛渡海記」が徳富蘇峰の文庫中にあり、現在、神田のお茶の水図書館にあるはずだと、東京大学史料編さん所の菊地勇次郎先生に教えられたのは、もう10年ほど前のことである。早速、図書館を訪れてこの書物に接して驚いた。正しく恵範上人の直筆で、内容は一人の上人が下野から那珂川を下り、那珂湊から生きながら海上へ出て往生をするという物語である。

亨録4年(1532)の作。しかもこの中に、柳沢、和田の地名も見出せたのであった。お茶の水図書館が、男子禁制と知ったのは、その感激の直後である。

佐藤次男(市史編さん専門委員)

昭和の記事から~那珂湊市史余話その2

(広報なかみなと昭和55年1月15日号)

湊と那珂湊

02
聖経奥書(六地蔵寺所蔵)

湊町を那珂湊町と改称したのは昭和14年の大内義比町長の時であった。ミナト町は、どこにもあって、まぎらわしいという意見は萠からもあったので、かって繁栄していたころに一般に使われていたナカミナトという呼称に改め、町制施行50周年を記念すると共に町の大発展を期そうとしたのがその意図であった。

たしかに、行政上は明治22年まで湊村であったが、江戸時代の史料には常州中の湊とか仲湊とか記されることは、しばしばである。それでは、この地域をミナトなりヘナカミナトと記した史料はいったいどこまで、さかのばれるであろうか。すでに天保のころ。『新編常陸国誌』を稿した中山信名は、鉾田町鳥栖無量寺にある康永3年(1344)の文書を採り上げ、その中にある「浦津浜湊河海」の浜は前浜、湊は那珂の湊なるべしと記している。この史料が湊と記されたもっとも古いものになるが、残念にも今は同寺に見当たらない。現存するのでは常北町小松寺にある文安2年(1445)の印信で、「湊華蔵院」とあるのがこれに次ぐ。

また、秋田県立図書館蔵秋田藩採集文書の文録5年(1596)の記録にも「湊」とあるから、文録3年の太閤検地の際も湊村であったと推測される。これが行政上の正式名称であったろう。

ところが、「那珂湊」という名称も中世にまでさかのぼるのである。すでに早く、井上義氏は宮古市に「那珂湊」と記した文和5年(1356)の史料があるらしいという情報を入手されていた。これは宮古市長根寺に旧蔵されていた大般若経第570巻目の奥書で、「常州吉田郡那珂湊天神別当坊住侶」である「頂範」なる人物が写経したものであることが、後に市史編さんの調査で確認された。

それより前の昭和45年9月東大史料編さん所による常澄村六地蔵寺の調査が実施された。昭和2年と3年に行われた同寺史料の大調査に次ぐもので、その折、未調査であった聖経断簡もすべて調査されたのであったが、ぼろぼろになった写経文の奥書に「那珂湊」の文字が出現し、参加していた私は驚喜したのであった。

史料は数点あり、例えば「于時文和四年十一月廿六日常州吉田群那珂湊書写之孕 妙範」とか、「文和五年卯月二日於那珂湊柏原普観寺書写之 妙範」などとあり、宮古市長根寺旧蔵史料と同時代、「那珂湊」の文字は、一年さかのぼることができたわけである。

その後は、六地蔵寺恵範上人が亨禄4年(1532)に著わした「那珂湊補陀洛渡海記」という書物を、東京のお茶の水図書館で見出すことができたから、湊も那珂湊も江戸時代以前から使用されていることが確実となり、併せてほとんど史料のなかった中世の那珂湊の様相も少しは明らかにされるようになったのである。また、那珂湊の文字の追求によって、同時にこの地が、すでに中世から「港」として機能したことが知られたのである。これらはすべて、市史編さん開始後の成果と言えるだろう。

佐藤次男(市史編さん専門委員)

昭和の記事から~那珂湊市史余話その1

(広報なかみなと昭和54年10月25日号)

酒列磯崎

01
酒列磯前神社

”あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今さかりなり”
と詠まれた奈良の都心平城宮址が発掘され、そこから、昭和36年以降、2万点以上にものぼる木簡が出土しており、常陸国関係のものも数点ある。その中の一つは奈良国立文化財研究所昭和38年発行の「平城宮第十三次発掘調査出土木簡概報」に”常陸国那賀郡酒 埼所生若海藻”とあり、44年発行の『平城宮木簡一には、”常陸国那賀郡須 埼所生若海藻”とある。この木簡は、昭和38年の発掘の際、発見されたもので文字は墨書、年代は天平18年(746)と推定されている。長さ22.1cm、幅2.3cm、厚さ3mmの木札で、諸国から貢進された品物の付札の一つである。

それでは、常陸国の那賀郡のどこか。「酒□埼」か、「須□埼」の部分が解読できればよいはずである。ところで、那賀郡下でワカメ等の採藻地といえば、現在、延喜式内社酒列磯前神社のある那珂湊市磯崎一帯の海岸が著名である。

酒列磯前神社は、大洗磯前神社と共に古く、記録は天安元年(857)にさかのぼることができ、かつては、「酒列磯崎」、「大洗磯崎」の地名があったろうと推定していたのであった。
従って、「酒」か「須」は、やはり「酒」。「□」の一字は「列」か「烈」であろうと考えたのであった。この疑問について、現在、東京大学史料編さん所長である菊地勇次郎氏にお話をしたところ、早速、奈良の研究所にいる狩野久氏に紹介の労をとっていただき、ほどなく狩野氏からの回答がもたらされた。その内容は、同研究所平城宮跡発掘調査部で再検討の結果、「須」としたのは「酒」の誤りであり、「□」のところは、わずかな墨痕ながら「烈」と読むことができるというものであった。

更に関連して、もう一点、上半部が折損した木簡で、「烈埼所生若海藻」という前資料と同一筆蹟と思われる資料があることも判明した。すなわち、”常陸国那賀郡酒烈埼所生若海藻”と墨書された木簡は2点、「酒烈埼」は「酒列磯崎」と同一とみるべく、天平18年に、那珂湊市磯崎一帯の海岸から、遠く奈良の平城宮までワカメが貢進された事実が明らかになったのである。

この事実から、更に次の謎も解けてくる。平磯から磯崎へかけての海をみはるかす台地上には、百数十基にもおよぶ県内屈指の古墳群がある。この時代は、すでに、稲作農業を主な生産基盤としており、一般に古墳の多くは、水田地帯をのぞむようなところに造らおているのが普通である。ところがこの地の古墳は、海をのぞんで群集している。そうするとおそらく古墳群の被葬者たちは、この地域を支配し、豊かな海の幸を掌握した地方豪族とその一族、そして海で生活する人々であったのではなかろうか。那珂湊古代史の一コマはこうしてよみがえったが、一方、古墳の数は、年ごとに減少し、わが郷の歴史は消えつつある。

佐藤次男(市史編さん専門委員)