伝説千々乱風_6

(市報なかみなと昭和51年3月25日号より)

伝説の成立と背景

これまで、いろいろ検討してきた千々乱風伝説について、その考察の結果をまとめ、あわせて伝説の成立とその歴史的な背景を要約して見よう。

かつて、那珂湊市阿字ケ浦から勝田市、東海村の海岸地帯には、人々が居住していたことがある。それが、室町時代以降、江戸時代初期にわたる時期であることは村松虚空蔵堂や馬渡飛田家に所蔵される史料や海岸から出土する土器、古銭、人骨などからも実証される。そこに生活をしていた人々は、おそらく前浜村、村松村、馬渡宿通りの村(青塚村、二亦村)を母村として進出したもので、生業は製塩を主としていたものである。しかるに、江戸時代の初期頃「毎年砂に吹きうめられ」、あるいは「度々の悪風ニ而家屋敷砂ニ被吹潰候而」居住なりがたく、というこの地域における活発な砂丘形成の時期に遭遇して、またもとの村又はその周辺に再移住した。

その移住は、海岸部に居住して集落を形成した人々の大部分であるが、若干は残留し、江戸時代から明治期まで、なお製塩業を営んでいた。千々乱風伝説は、こうした歴史を背景として成立したものであろう。伝説の類型としては、青森県下北半島や富山県入善町園家山、県内の高萩市や十王町、鹿島南部の砂丘にともなう伝説と同様である。昔あった村が津波や逆浪によって一瞬にして滅び、あとに砂丘が形成されたというもので不可抗力な自然現象による点が一致している。

またこの伝説は、さらに一方で家や村又は社寺の草創伝説とからみあっている。この地域においては、その村落社会における家、村社寺に関する草創の認識が、ほとんどすべてにおいて海岸からの移住に結びつけられている。実際に勝田市馬渡の成等寺や不動尊、那珂湊市前浜の黒沢、小池、大内家までもが、海岸から移ったのかという点になると問題はあるが、そう認識されることの方が、この地域の人々にとって必要だったのである。つまり、そうした伝説の存在が当時の部落社会を維持する上で有効な役割りを果していたからなのである。

かくて千々乱風伝説には、さらにいくつかの話が枝葉のように付随し、展開していくことになる。家、村、社寺草創の伝説のほか大風の時期、名称、風向、規模、存在したという村落の規模などは明らかに後世に付け加えられたことを証明できるのである。すなわち大風の時期については「毎年」あるいは「度々の悪風」の真実が、いつしか元和3年の驚異的な大暴風雨の事実におきかえられたであろうし、千々乱風の名称は暴風雨をしすめる呪語そのものがつけられたものであろう。また風向は、砂丘形成の要囚としての「北東の風」と、この地域の卓越風に対する右民の潜准的な意識によって定められたものであろう。さらに「75日」という大風の規漠「前田千軒後川二千軒」という集落の規模は、もちろん事実の数ではなく、あまねくこの国の人々に用いられてきた表現方法であるにすぎない。これらは、いずれも千々乱風伝説の形成過程において胴の知識人たちによって合理的具体的に付け加えられたものと判断されるのである。

ところで、日本のように古い歴史を有する国においては、どこの市町村にもかなりの数の伝説がある。どの一つをとりあげてみても現在の人々にはとうてい創作し得ないすぐれた内容をもっている。しかし、千々乱風伝説のようにスケールの大きな、しかも興昧に満ちた伝説は、そう多くはないのである。それがこの郷土に存し、祖先たちによって語りつがれてきたことを忘れてはならず、また私共が子孫に伝えていく義務がある。今この地域に流通港湾建設による開発がもくろまれているが、それが千々乱風伝説に関係する遺跡や景観を破壊するものであってはならないと考える。(終)

S520325

【注記】市町村名など表記や表現、解釈などは当時のものとなっています。

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