伝説千々乱風_5

(市報なかみなと昭和51年12月25日号より)

沢田の部落と人びと

沢田周辺に、伝説にいわれるようなムラが存在したことは、史料と遺跡・遺物からほぼ実証できたわけであるが、もう少し伝説と史実との関係を追求してみよう。それには、まず村松虚空蔵堂所蔵の元和9年から享保3年に至る7点の文書が重要な役割を果たす。

この一連の史料によれは、元和9年3月、村松浜の百姓17名が毎年砂に吹き埋められるので、村松大神宮領内へ移らせて欲しいと願い出て許されている。その後もなお村松東方沿岸には享保3年ごろまで居柱者のあったことがわかるのである。

次は、勝田市馬渡の飛田喜久馬氏所蔵文書で、やや時期が降り宝暦14年に書き上げられたもの。内容は宿通り3箇所で、この年より210余年前に下夕浜という場所へ開発をしたが、度々の悪風で家敷が砂で吹潰されるので別の場所へ家数23軒を移し、さらに青塚浜、二亦浜も同様なので、宿通りへ144軒を移したというものである。宝暦14年から210余年以前は、天文年間から寛永18年前の間であろう。

この二つの史料、すなわち、伝説にいう年代と同じ頃か、それにより近い史料によれは、村松や馬渡の海岸には、部落が存在したが毎年あるいは度々の悪風で屋敷が砂に埋め潰されるので、移住が行われたことは確実である。しかも飛田家文書ではもともと海岸に人びとが居住したのではなく、室町時代末頃に新たに海岸へ進出したことがわかり、両文書から、その進出部落は、村松浜、青塚浜、二亦浜といった名で呼ばれたこともわかる。つまり、村松村-村松浜青塚村-青塚浜、二亦村-二亦浜といった関係の部落である。
こうした部落のあり方は、鹿島南部の村落名に数多く認めることができる。たとえば、栗生-栗生浜、国宋ー国末浜、居切-居切浜知手ー知手浜、日川-日川浜などで、これは、近世鰯地曳網漁業の発達にともなって出現した納屋集落を示している。その対応関係は親村と子村、母村と分村のごとき関係であり、村松浜、青塚浜、二亦浜も、もとの村から新たに海岸に進出して形成された集落に対する名称ということになるだろう。

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ところで、江戸時代以前に海岸へ進出し、そこで生活を営むとすれば、そこに住む人々の生業は何であったろうか。もちろん前浜や長砂で明治期まで行われた鰯地曳網漁業も考えられるが、これも室町時代まで遡らせることは困難である。では農業すなわち新田開発はどうか。これも沢田川に沿う地域のみでは面積に限界があり、水田耕作を発展させる将来性にとぼしい。そこで、主な生業として考えられるのが製塩業である。

茨城の製塩は、縄文時代後・晩期から奈良時代頃まで、霞ケ浦沿岸を中心に行われていたが、鎌倉時代以降は太平洋沿岸がさかんになる。霞ケ浦の淡水化、揚げ浜製塩による技術的変化、その他需給流通の影響によるものである。

沢田周辺海岸への人々の進出はこのような時代のすう勢にともなうものであろう。そして、まさしく村松虚空蔵堂文書の中には、彼らが「塩かまやく」業を営んでいたことが記されているのである。近世後期の史料、たとえは、「水府志料」前浜の頃には、「塩戸八ッあり」とあり、天保12年の「前浜邑田方図」には、沢田に塩かま9軒とその所有者が記されている。塩専売前の明治36年の調査では、前浜村にかま数3、生産高30石、村松村かま数1、生産高4石と記されているから、沢田周辺の海岸では、近世以降も製塩業が営まれていたことは明らかである。たびたびの悪風によって毎年家が砂で埋められるため、移住を余儀なくされたあとも細々ではあるが製塩業が続けられていたのである。ともあれ、沢田周辺の海岸にはたしかに部落が存在し、そこに住む人びとは、製塩を業としたことが明白になったわけである。

(その6につづく)

【注記】市町村名など表記や表現、解釈などは当時のものとなっています。

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