伝説千々乱風_4

(市報なかみなと昭和51年1月20日号より)

沢田の遺跡と遺物

千々乱風によって三つの村が埋没したという現地は、昭和13年以降日本陸軍の飛行場となり、敗戦後は米軍に接収されて射爆撃場となり、昭和48年の返還後は日本政府が管理し、一部は自衛隊の爆破訓練地域に利用されている立入禁止区域である。そして今や流通港湾の建設が構想されている問題の地域である。この地域の中ほど、那珂湊市と勝田市の境界となる沢田川周辺の、太平洋に面するあたり、かつての村があったといわれている。

茨城県内では、ここは海岸砂丘の発達した地域で、砂丘の規模が鹿島南部の砂丘につぐ。砂丘中には数多く風積丘があり、これを観察すると、長軸は北東から南西方向を示すことが多い。北東の卓越風が強く作用したことは明らかである。三村の名称も、この現地の状況から推察できる。二亦村(浜)は、おそらく海岸の形状であろうし、大塚村(浜)、青塚村(浜)は、塚状を呈する風積丘の存在からつけられたものであろう。

砂丘がいつ形成されたかという問題も重要である。この点については、地理学者の海岸砂丘に関する研究や、渋田付近で地層が露出しているところを観察した結果をあわせると、ローム層堆積以後、腐蝕土層が堆積した時間を経てから、この地方の砂丘が形成されたことがわかる。ここに原始古代の追跡や追物を発見できれば、さらに砂丘形成のより具体的な時期を知ることかできるのだが、現在のところ、無土器時代の石器一点を除いて、縄文・弥生・古墳時代、さらには奈良・平安時代の遺跡や遺物は発見されていない。

しかしながら、この砂丘地帯に他の時代の遺物が皆無なのではない。実は、砂丘と砂丘の間のやや低くなったところなどに、点々と人骨の群があり、また土器片や古銭などが発見されるのである。現存までに私が採集し、また知り得た遺物は、人骨群(十数カ所)、獣儒群(一カ所)、讐倖(一個)砥石(一個)、石錘(一個)、陶器破片(多数)、内耳土器片(多数)、古銭(23枚)、などである。S511125

まず、これらの遺物のうちから、内耳士器と古銭をとりあげて沢田周辺の追跡の時期を推定してみることにしよう。

内耳土器とは、内耳土鍋ともいわれるように、土器の内面に孔のあいた把手を有する土鍋である。出土例は、本州、北海道、千島、カラフト、カムチャッカにおよんで、北千島では幕末まで、千葉県の一部では明治期から昭和10年代頃まで使用していたという。

次に、採集古銭の23枚は、唐宗、明銭、無文銭で、もっとも多いのが永楽通宝の5枚である。新しいのは、宣徳桶宝(初鋳年、西暦1433)で、これを上限とし寛永通宝は発見されていないから永楽通宝の通用が禁止された慶長13年(1608)ないし寛永通宝の初鋳された寛永13年(1636)頃を下限とすれは、おおよそ室町時代以降江戸時代初期までを遺跡の時期と推定できる。

では一体、このような遺物が発見される遺跡の性格は何であろうか。幸いなことに、調査の際に、人骨、古銭、内耳土器片が同一箇所から発見された例があり、この事例を全国の資料に求めると、千島、青森、宮城、茨城、千葉、神奈川、長野県の各地に見出される。死体に内耳土器と古銭を副葬する中世から近世の葬送習俗を示すものである。従ってこの遺跡は墓地であるということになる。つまり、沢田海岸一帯には、室町時代から江戸時代初期までかなりの墓地がつくられており、その周辺には、たしかにある規模の集落があったと推定できるのである。

(その5につづく)

【注記】市町村名など表記や表現、解釈などは当時のものとなっています。

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