伝説千々乱風_3

(市報なかみなと昭和51年1月20日号より)

伝説の分析と検討2

第四は、この伝説における大風の名称である。大風に名称をつけた事例を知らないが、チヂランプウ、またはチヂランプンという語で、まず想起するのは、子供か体のどこかをうったりして痛めたとき、親などがその部分をなでこすりながら発する呪語である。この場合の呪語には、チヂランプウ類似語と、仏教語からくるアビラウンケンソワカの二種類があるが、ここでは前者のみを問題とする。S510620

呪語は、「チチンブイプイ、何々のお山へ飛んでゆけ」というのが一般的なものであるが、これは地域によってさまざまな言葉が入り交って複雑である。これを手許に集めた資料によって分布図をつくると図のようになる。つまり、この呪語の分布は関東、東北にわたってひろく、茨城県内の事例には、チチランカンブイ・チチランカンプウの南方型と、チチランプウ・チチランプンの北方型があり南方型では、これに「カヘイがまじない」という言葉がともなうことにより、千葉県との結びつきが強くなり、北方型では、「コガネサラサラ」がともなうことにより東北地方との関係が濃くなる。それよりも重要なのは、千々乱風伝説を有する地域か、呪語分布で南北両型の錯綜するところであり、また、この地域以北に、大風の名称チヂランプウ・チヂランプンとまったく同一の呪詔が用いられていることである。両者が何らかの関連あることは明らかであろう。

では、この呪語のもつ意味は何だろうか。東京のチヂンブイプイゴヨノオンタカラは、智仁武勇は御世の御宝であり、これが地方にひろまったという人もある。また県北里美村の花咲爺譚では、灰をまくときに「黄金サラサラ、チチランプ」と唱える例があるので、これには治療と招福の意昧があると指摘した人もある。

たしかに、新潟県や東北地方の昔話である灰まき爺の唱え詞や、屍ぴりおんじの放屁の音に類似のものがあり、「御世の御宝」とか「錦さらさら」「黄金さらさら」などの言葉をともなうことを考えると、治療のほかにも招福の呪語としての一面があることがうなずける。だが、さらに私は「飛んでゆけ」という語をともなう点に風との関運をこだわるのである。たとえは、北茨城市大津においては大正6年のシケのときに、老宰がまじないとして、「チンチンパチラン、チンパチラン」と唱えたというのである。ここでは暴風をしずめる呪語として用いられた一面があることか明らかである。

すなわち、千々乱風の名称を暴風除けの呪語と解釈することによって、はじめてこの種呪語分布における、伝説地域の大風名称と呪語の一致が理解できるのである。とするならば、千々乱風によって呪語が生じたのではなく、呪語かあって、大風に対する名称が生じたと考える方が無理がないであろう。
では第五に、伝説にいうごとき強くこの地域の住民に印象づけるような大風が実際にあったのだろうか。伝説にいう大風のあった年代についてはさまざまで、これを元和年間、実年代をあげる記録では、元和二年、三年を採るものが多い。県内の史料でこの時期の該当史料はないが、「徳川実紀」や「伊達治家記録」の中に注意すべき記事をみいだすことができる。それは次のとおりである。

元和三年四月(1617年5月)…十日昨夜より大風雨所々暴搬す十二日風雨猶やまず…入馬川洪水して千寿の大川みなきり大橋も既におしながされんとす…人馬溺死するものあり…下部等の中には千寿篁加両駅の間にて風雨に咽て死する者十三人とそほとんど未曽有の大風雨とて衆八驚憐す
ー徳川実紀-

十日午下刻より少々雨入夜甚雨大風十一日昨夜の大風雨に依て午刻より広瀬川暴醒…愛元去十日屋糧よりそろそろと雨降出夜に入大風大雨にて十一目昼時分より大水出
ー伊達冶家記録ー

すなわち、元和三年四月九日夜から十二日にかけて関東、東北地方を大暴風雨が襲い、それはまさに夫曽有のもので、衆人の驚愕に値するものであったというのである。おそらくこの事実が、この地域の住民にも強い印象として残り伝説に実年代を付加するものとなったのであろう。そしてまた、四月(新暦五月)にはおこり得ないような天災の、その時期の記億が失なわれて、秋八月という台風襲来の常識的月日の設定になったものと想像されるのである。

第六は、伝説または記録にいう三村、すなわち大塚村、二亦村、青塚村が、伝説の年代に近い史料にみいだせるか否かである。この点については、水戸藩以前にこの地方を領した佐竹氏の文書のなかには、今のところ検出されていない。水戸藩成立以降では、偶々馬渡酒列神社の寛永12年の棟札に青塚村、二亦村の名をみいだすことを得た。

馬渡村は、寛永の末に馬渡本郷と青塚村、二亦村を合わせて一村としたという後代の記録がある。とすれは、寛永12年の膏塚村、二亦村は、大風による移住後で、合併前の村名を示すにとになる。もともと伝説上に登場する部落名は、三村のほか、大塚浜、二亦浜、青塚浜、馬渡浜、馬渡浜村、沢田町などさまざまである。したがってかりに棟札に記された青塚村を例にとっても、海岸にあったというのは青塚村であったか、青塚浜であったか、また、移住後に青塚村と称されたのか、さらに、もとから青塚村があり、青塚浜の部落もあったのか、という点は依然として不明なのである。しかしながら、この棟札によって、青塚村、二亦村の存在は、一応実証し得たとしてよいであろう。

以上に、千々乱風の伝説を紹介し、その伝説を分析し検討を試みてきた。では、千々乱風によって移住を余儀なくされた、かつての三村が存在したという現地はどうなのであろうか。

(その4につづく)

【注記】市町村名など表記や表現、解釈などは当時のものとなっています。

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