伝説千々乱風_1

(市報なかみなと昭和50年11月1日号より)

1.千々乱風の伝説

那珂湊市阿字ケ浦町から東海村に至る海岸線のほぼ中央を沢田川が海に注いでいる。伝承によれば、この沢田川辺の海岸を中心として、かつて大塚村、二亦村、青塚村という三つの村か存在し、その村落の規模は、前田千軒・後田二千軒もあった。ところが、昔秋8月19日から75日間も東北の大風が吹きつづき、家屋は倒壊したり砂に吹き埋められたため、三つの村の人々は三分し、大塚村から前浜へ、二亦村、青塚村から馬渡(現勝田市馬渡宿)、横道坪(現勝田市長砂)へ移り住んだという。この大風を名づけて、住民はチヂランプウ、またはチヂランプン、文字にあてて地々乱風、または千々乱風と称している。

この伝説は、那珂湊市磯崎・阿字ケ浦町、勝田市馬渡・長砂、東海村照召・村松宿・真崎にわたって分布しており、すでに近世後期の記録にもとどめられている。S501101

たとえば、小宮山楓軒編「水府志料」には、前浜村は、「往古大塚とて浜辺に人家ありしに、元和の初め大風に壊れ、其後今の地に家居して前浜村に改めたりと云」とあり馬渡村は、「往古青塚、二亦、大塚とて三ケ村にて浜辺に家居せしに、元和の末大風にて家並も吹潰され、住ひ成かたくして今の所に移り、寛永の末に、青塚、二亦のニケ村を合わせ、馬渡に入て一村となす。大塚は今の前浜なり。」と記され、高倉逸斎の「探究考証」や、中山信名編・栗田覧補「新編常陸国誌」上巻などにも記されている。

明治以降の郷土史(誌)に記載あるものは十指に余り、明治19年ごろ成立の小池信親編「茨城県常陸国那珂郡前浜誌」には、「往古ヨリ本村北部海岸ニ大塚浜二亦馬渡浜の三村(此ノ地今砂漠)アリタリシカ元和三年巳八月一九日ヨリ北風(古俗伝エテチチラン風ト云)七五日(日数ハ伝説)吹続キ海嘯キ怒濤天ヲ衝キ烈風砂ヲ飛シ家屋ヲ埋没セシヲ以テ人民居住スル能ハス三分シテ一ハ前浜村ヘ(現今字南浜田ノ地力)一ハ隣利馬渡村(今ノ字上中下ノ三宿)へ一ハ隣村長砂(今ノ字横道坪)ノ三村へ移住シ而シテ三村ノ名称ヲ廃シ其地ヲ前浜罵渡長砂ノ三村へ分合ス」と紹介されており、その他諸書の認載は大同小異である。

では、千々乱風なる大風は、いつのことであったろうか。おそらく伝承をもとにしたであろう諸記録によれば元和2年、元和3年、元和初年、元和末年、元和中、寛永18年などさまざまで、明治以降には秋8月からと明記されたものが多い。

ところで、この千々乱風伝説にはさらに付随して次のような伝承が存在する。

  1. 勝田市馬渡宿にある成等寺の山号を青塚山と称し、住職も青塚を名乗るのは、この寺が青塚村から移ったためである。
  2. 馬渡中宿にある不動尊を沢田山多宝院と称するのは、沢田から移ったためである。
  3. 常澄村栗崎にある仏性寺も沢田から移ったので、沢田山仏性寺、あるいはオンタク院仏性寺という。沢田の海岸には、オンタク跣址といわれるところがあり、また前浜には、今でも仏性寺の七軒の檀家がいるのはその証拠である。
  4. 東海村村松の大神冨も、もとは沢田から移ったので、神官は沢田姓であったが、のち荒木田姓に改めたものである。
  5. 那珂湊市原の熱田家を、俗に砂岸と呼んでいるのは、かって大風のとき、そこまで砂が飛んできたからである。
  6. 馬渡は、本郷、上宿、中宿、下宿の4つに分かれ、酒列神社を鎮守としている。本郷が古くからあった部落で、俗に馬渡本郷とか本馬渡と呼ばれている。明治のはじめまで前浜や馬渡宿のことを浜新田と呼んで、鎮守の祭りも本郷の者が参加しない限り、宿の者だけでは執行できなかった。これは、宿の人々があとから海岸より上ってきたためである。
  7. 前浜の黒沢鴨衛門家は旧家で、古くは掃部衛門長者といわれた。大塚浜にいたころ、八幡入郎義家が前九年の役で奥州へ行軍の途中、長者宅に泊り、大雪のため冬越しをして出発し、そのとき礼として与えられた一書は今でも残っている。前浜や馬渡に黒沢姓が多いのは、この宗家から分かれ、それが沢田から移ったためである。今でもこれらの黒沢家では、前浜の鴨衛門家で杞る黒沢一族氏神(八幡神社)へ参詣にいく。

このような、もと沢田辺(伝説の三か村所在地域)から移ったという伝承は、前浜の黒沢家のほか、大内家や小池家、馬渡宿の飛田家などの旧家にも伝承されており、さらに東海村に入っては、照沼、洞松宿、頁崎荒谷辺にも海岸から移ったという伝承が存在する。

以上が、千々乱風伝説の大要である。この伝説は、那珂湊市、勝田市、東海村の人々の間に、家や村の成立の歴史的事実として認識されているばかりでなく、生活、信仰の面にわたって今なお深く生きつづけているのである。

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【注記】市町村名など表記や表現、解釈などは当時のものとなっています。

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