昭和の記事から18〜高野のうつりかわり

「市報かつた」に昭和53年から昭和54年にかけて「文化財めぐり」として掲載された”ムラのうつりかわり”(全18回)を紹介します。(18/18)

高野

(市報かつた昭和54年5月10日号掲載)

白旗八幡神社、俗に八幡様の境内に、愛宕、富士、天満、招魂、阿夫利の各神社が杞られています。なかでも阿夫利神社は、石尊様ともよばれ、古くからムラの人達に崇め、親しまれてきました。この阿夫利神社は、相模国の御獄で、別名雨降り山として知られる、神奈川県伊勢原市の大山に鎮座する阿夫利神社から分祠したといわれています。石尊を神体とし、病気を治してくれる神とされていますが、一般には、雨をもたらし、農耕を司る神として知られています。

高野の石尊様の祭礼は、5月1日ですが、石尊様の祭礼といえばかつては、近郷近在の村々に広く知られたお祭りでした。原、宿、小貫山の三坪から山車が繰り出され、この時、笛、大小の太鼓、鉦によるお囃子が一種独特なもので俗に「石尊囃子」として知られています。この石尊囃子は、「トリンバヤシ」とよばれる、つまり、切り返しの部分に特徴があるといわれています。石尊囃子の原流は祝町(大洗町)辺りの芸者が身につけていた芸を、足崎の芸者達が会得してきて、さらに、高野の若者達が、その芸に工夫を加えて、一種独特の調子をもつ石尊囃子を創り出したといわれています。今のうちになんとか後継者を育て、貴重な無形民俗文化財として、永く後世に保存したいものです。

つぎに、高野の地名の田来と歴史をみてみましょう。まず、地名の由来ですが、高野という地名は県内だけでも大宮町、総和町、豊里町、守谷町など各地にあります。今では漢字で「高野」の字を当てていますが、関東以北で、とくに東北地方などでは「荒野」「広野」の字を当てているようです。後に述べる「大般若経跋語」に、「村松広野之愛俊」と掻かれているところから室町時代頃は「広野」と書いていたことがわかります。一説には「高野の四十七谷」など、弘法大師行脚説に由采するという説もありますが、地形的に広い野原という意味から名付けられたとみてよいでしょう。

つぎに、歴史をみてみますと、小貫山地内の畑から、石器(石槍)が出土しています。すでに一万年以前に入々が狩猟生活を営んでいたことがわかります。また、現在市営墓地となった寺畑遺跡から、縄文、弥生、土師器などの土器が出土しております。ことに、古墳時代頃の住居跡からは、当時の人々の食生活の様子を知る手がかりとなる高槻、碗類が多数出土しています。

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清水館跡

中世では、清水但馬守が地頭として高野を支配していました。館跡は字富士山にあり、当時の土塁と堀跡の一部が残っています。額田(那珂町)の琵盧遮那寺に、清水伯習守成次が奉納した大般若経の一部が保存されていますが、その日付けが「明応6年(1497)5月10日」とあるところから、高野は額田城主小野崎下野守善通の所領で、地頭清水氏は、この頃は額田氏の配下にあったことがわかります。額田氏が滅亡した後は、佐竹氏に仕えますが、文禄4年(1595)の石高は、高野、須和間(東海村)を合せて437石4斗で、この時期は、佐竹の重臣東義久の知行地となっていますから、清水氏の地頭としての地位は、もはやこの時期には失なっていたと思われます。

江戸時代の寛永12年(1635)には、高野だけで776石4斗と急激に石高が増えています。これは、わずか40年の間に真崎涌周辺の新田開発が、かなり進んだことをしめしています。しかし、周辺には原野も多く、寛政12年(1800)10月27日、水戸藩家老中山備前守ら組付20人が、高野で鹿狩りを行ない、狸1匹を捕えたと「水戸紀年」に記されています。天保年中の石高951石3斗、戸数は113戸。明治6年の大小区制により、第八大区四小区。明治17年改正連合村では、東石川、枝川、佐和、高場、足崎の他、後台村(那珂町)を含めた高野村連合村で、戸長役場が高野に置かれました。明治22年町村制の施行により、佐野村大字高野となりました。(市史編さん事務局)

【注記】市町村名など表記や表現などが当時のものとなっています。

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