昭和の記事から17〜高場のうつりかわり

「市報かつた」に昭和53年から昭和54年にかけて「文化財めぐり」として掲載された”ムラのうつりかわり”(全18回)を紹介します。(17/18)

高場

(市報かつた昭和54年4月25日号掲載)

稲田、高野、高場の三つのムラの接点地に近い高場地内に、佐和駅が設置され、営業を開始したのが明治30年2月25日でした。同年の8月23日には、水戸、岩沼間が開通し、常磐線(当時は日鉄海岸線)は全面開通しました。

佐和駅の設置は、周辺地域の発展に大きな役割を果たしてきたことはいうまでもありません。「茨城県統計書」から、当時の旅客、貨物等の数量をみてみますと、明治33年の旅客数12800人、貨物数2800トンであったものが、日露戦争が終わった翌年の明治39年には、旅客数14200人、貨物は2.2倍の6300トン。さらに、明治44年には、旅客数16000人、貨物は3.1倍の9500トンと急激に増えています。明治44年は、勝田駅が宮集を開始(明治43年3月18日)した翌年に当たりますが、この年の勝田駅の旅客、貨物等の数量は、7800人で2100トンですから、旅客は勝田駅に比べて2倍、貨物は4.5倍となっています。この佐和駅で取扱われた貨物は、湊や平磯に水揚された水産物、それと、常磐炭抗などで抗道に使用された松材、その他、大小麦、甘藷、苗木などが主なものでした。なかでも、サンマが水揚された時期には、湊方面から昼夜をとわず、サンマを満載した荷馬車で大変にぎわい、湊・太田街道など、駅周辺の道筋は、魚の油でにじんでいたといわれています。大正時代の高場

明冶末期から大正初期頃になると、農業面で化学肥料の需用が高まり、明治30年初頭に肥料商二号店が開店し、同39年頃には湊の小圷肥料店佐和支店が開店し、大正初期にはヤマサなどの各肥料店が佐和駅周辺に開店しました。当時佐和駅に降された貨物の8割が、肥料であったといわれています。図は大正15年(昭和9年)頃の佐和駅周辺を復原したものです。マルカ、東海両運送店をはじめ、銀行、郵便局、病院、飲食店、劇場などがみられ、繁栄した佐和駅周辺の当時の様相がしのばれます。

つぎに、高場の地名の由来と歴史をみてみましょう。まず、地名の由来ですが、「上高場村鎮守建立覚書」に、「江戸但馬守殿、当初江御鷹野江御出之節云々」と記されています。室町時代のころには、すでに「鷹場(羽)」とよばれていたことがわかります。「鷹場」は御鷹狩りの場です。こうした御鷹狩の場は各地に残っておりましたが、そのままムラの地名となったのは、めずらしいといえます。

つぎに、高場の歴史をみてみましょう。古い時代では、有名な遺跡、鉾ノ宮古墳群が知られています。かつては、20基前後は右在したともいわれ、昭和41年の工業団地造成にともなう緊急発掘調査によって、これらの古墳群から人物や馬の填輪が出土しています。古墳時代の頃は、かなりの豪族が支配していたことがわかります。

中世の永禄10年(1567)頃は、江戸但馬守忠通の娘が、江戸氏の家臣であった、寄居(那珂町)館主平野豊前のもとに嫁いださい、化粧免として上高場の地を与えたことが古文書に記されています。後の佐竹氏が支配した文禄4年の頃は、上・下高場、稲田を含めて、佐竹氏の重臣、東義久の知行地でした。

江戸時代の寛永12年(1636)の石高は、上高場271石3斗、下高場308石8斗。天保年中の戸数は、上高場43戸、下高場45戸。この頃上・下高蜴は合村となり、高場村となりました。明治6年の大小区制により、第ハ大区四小区、明治15年現在は高場、高野を含めて高場村連合村。明治17年の改正連合村では、高野村連合村。明治22年の町村制の実施によって、佐野村大字高場となりました。(市史編さん事務局)

【注記】市町村名など表記や表現などが当時のものとなっています。

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