昭和の記事から16〜佐和のうつりかわり

「市報かつた」に昭和53年から昭和54年にかけて「文化財めぐり」として掲載された”ムラのうつりかわり”(全18回)を紹介します。(16/18)

佐和

(市報かつた昭和54年3月25日号掲載)

市域の北端部に位置し、那珂町と東海村に隣接する佐和ムラは、浜街道(岩城相馬街道)が整備されるとともに、早くから宿場として発展してきました。「元禄常陸国絵図」、「大日本道中行程細見記」なとの古地図にもみられるように、ことに、宿駅制が定められてからは、水戸、石神(東海打)間を結ぶ荷駄の継所として、重要な役割りを果たしてきました。

しかし、一方ではこのような宿駅制によって、佐和ムラはもとより、周辺のムラが疲弊し、困窮をまねく原因となったことも事実です。その制度が、宿駅制にともなう助郷(すけごう)とよばれた制度でした。この助郷とは、幕府が諸街道の宿場の継立てを援助するため、宿場の近郷近在に課した宿場人足です。参勤交替が制度化され、道中が増えるにつれて、助郷は宿場周辺のムラにとっても大きな負担となり、困窮においやられるはめになりました。とくに、浜街道は享保年中以降、交通がふえて、浜街道を経て水戸街道を利用する大名の数は、たとえば、文化5年(1808)のばあい、東海道146頭、奥州街道37頭、中山道30頭についで、水戸街道23頭であったから、かなりの交通量であったことかわかります。しかも、大名などは、定められた人足以外に、違反して使役するものが多く、また、宿場には馬士や人足が、旅人から酒手をねだるなと風紀も乱れ、このため、幕府は道中奉行を通して、再々厳しい取締りをおこなっています。

「馬渡の裸馬」とか、「佐和のボロ宿」などといわれたのも、過酷な助郷制度が原因であったわけです。事実、文化7年には、佐和、森山(日立市)の二村は「囚窮ニ囚テ人馬銭今年ヨリ五年間二割五分増」というように、特別に水戸藩の庇護を受けています。一見はなやかな宿場の裏面史がうかがえます。

つぎに、佐和ムラの地名の由来と歴史をみてみましょう。まず、地名の由来ですが、「大日本地名辞書」によると、「佐和」、「沢」「佐波」の地名は、島根、静岡、長野の各県にみられます。「水府志料」に、「旧佐和村に作る。貞享中より沢村と書よし云々」とありますが、実際は文禄年中頃も沢村と書いていたようです。現在の「佐和」は、天保年中以降に村名を書き改めたということです。しかし、「佐和」も「沢」も同じ意味とみてよいでしょう。同書に「ふるわた堂出水、横堀境にあり。人わひたりと唱ふれは、水わきあがる事、泉ヵ森に同じ」と記されています。地名の諸源ともなったこの「ふるわた堂」の泉は、現在、国道6号線にかかる弁天橋西側の一角にありますが、古老の話によると、近年まで砂をふきあげながら水が湧き出て、真崎浦に流れていたといわれます。

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ふるわた堂

つぎに、佐和の歴史をみてみましょう。新川から支谷にいどむ丘陵地(孫目)に、直経20メートル、高さ11メートルほどの円墳が3基確認されています。かなりの豪族がいたことがわかります。

中世には、室町時代末期頃の館跡があります。篠根沢館跡と雄害城です。「常陸奥七郡盛衰記」によると、応永末年から享徳年間(1452-1455)にかけて、江戸通房と、佐和辺りの武士たちの合戦を記したなかに、「沢村の人河野兵庫は薙子か原の館に在り」、「雄害城に拠る上田与三郎忠綱、鈴木佐渡」、「沢條根ケ原」などの城館や人名、地名がみられます。佐竹氏支配の頃は、佐竹氏の直輻地でした。

江戸時代の元禄15年の石高は635石8斗、天保年中の戸数は94戸。明治6年の大小区制により、八大区四小区となり、さらに、明治17年の改正連合村では佐野村連合村、明治22年の町村制の施行により、佐野村大字佐和となりました。佐野村の村名は、佐和の「佐」と高野の「野」の字をとって佐野村と名ずけられました。(市史編さん事務局)

【注記】市町村名など表記や表現などが当時のものとなっています。

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