昭和の記事から15〜稲田のうつりかわり

「市報かつた」に昭和53年から昭和54年にかけて「文化財めぐり」として掲載された”ムラのうつりかわり”(全18回)を紹介します。(15/18)

稲田

(市報かつた昭和54年2月25日号掲載)

佐和駅に近い湊街道沿いの稲田、向場、高野の三つのムラ境に、道祖神社が杞られています。ムラの人びとは、この神様を「道六神様」とよんでいます。

この迫祖神社の由来は、一説によると、浄妙山徳定院東聖寺の住職、第20世香起上人が、横堀(那珂町)の発汗地蔵とともに、四方固めとして祠ったといわれ、創建年代は、今から300年ほど前の天和から貞享年中の頃ともいわれています。

もともと、この道祖神は、道六神とか、塞の神などとよばれ、祭神は猿川彦の神とされていますが、旅の安全や悪疫かムラに侵入してくるのを防いてくれる神様としてムラ境に杞り、古くから信仰されてきました。道祖神社に、よく草鞋(わらじ)が奉納されているのが見かけられるのもこのためです。また、疫病か流行したさい、ムラ境に青竹を立てて、注連縄を張る「ミチキリ」の習俗なども、一種の道祖神信仰といえるでしょう。市域では、この道祖神を杞るムラとしては、稲田の他に高野、枝川などに杞られています。

つぎに、稲田の地名の由来と歴史をみてみましょう。「大日本地名辞書」には、稲田の同一地名は新潟、福井、静岡の三県下にみられます。県内では笠間市稲田があります。稲田の地名は「家系本末鉦」によると、「天慶9年(946)2月、鹿島郡武甕腿命ノ社エ詣フテ、其時神威二感シ乃勾シ来リテ護神二杞ル、囚テ村ノ名ヲ鷹志村卜改ム、八月村ノ地瞭トナリ本材二来リ住ス、囚テ稲田村ト改ム」とあるように、はじめ鹿島の名をとって鹿志村と称し、後に稲田村と改めたとあります。地名の由来は、文字のとおり、本郷川水系上流(新川)の、ややひらけた水田地帯であったところから稲田と名ずけられたものと思わます。

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老ノ塚古墳発掘調査(S51)

稲田の歴史をみてみますと、佐和駅北方数百メートルの松林の中に、有名な老ノ塚とよばれる古墳群があります。この古墳群は、老ノ塚から,高野のニツ森あたりにかけて点在し、昭和37年頃までは、13基の円墳が確認されていました。しかし、現存する古墳は8基です。中根の笠谷古墳群、三反田古墳群などとともに、現存する古墳群では規模も大きく、文化遺産としていつまでも保存しておきたい古墳群の一つです。

このように南岸の本郷川水系と、北岸の真崎浦に面した丘陵地にある稲田には、古くから人びとが生活を営み、とくに、古墳時代の頃は、かなりの豪族が支配していたことがわかります。中世の頃の稲田の歴史は明らかではありません。古老の話によれば、字円明地内に土塁や堀をめぐらした豪族の居館跡の遺構が存在したといわれています。現在も堀の一部が残っており、おそらくは、はじめ鹿島崎とよばれる地に居館を構えた、鹿志村伊勢守平久盛一族の居館とも思われます。なお、稲田氏も元は鹿志村氏であったとも記されています。

戦国時代末期の天正17年(1589)4月の額田の大乱のさい、稲田は、もろに戦乱に巻き込まれて、今鹿島神社などが焼失したと「鎮守開基帳」に記されています。佐竹氏が支配した頃は稲田は上・下高場と共に、佐竹の重臣東義久の知行地で、文禄4年の石高は88石6斗でした。江戸時代の元禄15年には、稲田だけで391石8斗と急激に石高が増え、開発のあとがうかがわれます。天保年中の戸数は57戸でした。

明治6年の大小区制で、津田、足崎などと同じ八大区四小区、明治17年には、東石川など十ニカ村で高野村連合村となり、明治22年の町村制の雁行て、佐野村大字稲田となりました。役場は、当初稲田の字円明地内の民家を借り受けていましたが、大正14年1月大字高場字神田後に、経費6569円をもって新築、移転しました。(市史編さん事務局)

【注記】市町村名など表記や表現などが当時のものとなっています。

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