昭和の記事から14〜田彦のうつりかわり

「市報かつた」に昭和53年から昭和54年にかけて「文化財めぐり」として掲載された”ムラのうつりかわり”(全18回)を紹介します。(14/18)

田彦

(市報かつた昭和54年2月10日号掲載)

「田彦村へ二里有、右ハ岩城海道、左ハ太田街道と有、左ノ方松山ノ内、赤城明神社有、又盗八神と称し、比松山へ盗八ヲ追込ハ、再不出と云、左り方道なし」

これは、寛政3年(1791)に仙波村(水戸)の百姓、深作平右衛門が記した「奥州海道行程記」の一部です。田彦ムラは、江戸時代になって、(岩城相馬街道、浜街道)太田・棚倉街道が整備され、荷駄の継所の重要な宿駅として、発展したムラです。ことに、太田・棚倉街道が整備されてからは、大変にぎわったようです。そこで、江戸時代から、昭和10年代ごろにかけての田彦宿を復原してみましょう。ムラを復原するさい、手がかりとして屋(家)号を調べるのも一つの方法です。田彦ムラは、街道両側に馬宿や旅篭、商店などが建ち並んでいました。 昭和10年ごろの田彦

たとえば、馬宿では、かの屋、平野屋、馬宿があります。旅篭では、さくら屋、やまと屋。商店では、かまや(酒造)、醤油屋(醤油醸造)、伊勢屋(酒屋)、こふく屋、わた屋、さと屋、雑貨屋、油屋、車(水車)、米屋、飴屋、清水屋などがあります。また、職人が屋号として残ったものに、桶屋、畳屋、目伝さん(家伝薬による眼の治療)、馬喰、車大工。このほか、特定な場所が家号となったものに、塚本(一里塚)、宮前、新地向屋敷などがあります。水戸方面から日立方面に向かって、つるや(旅篭、加満やのつぎ)釜や(呉服大物、酒しよう油菜、かのやのつぎ)大黒や(雑貨、釜やのつぎ)日野や(豆腐や、加満やのつきのたたみやと同所)

このように、ムラを復原してみると、日常生活で必要な商人や各種の職人が、ムラの中でそれぞれの分野で、生活を担っていたことがわかります。一方、屋号は田彦ムラのように、平野姓が7割近くを占めるというムラでは、むしろ屋号でよんだ方がわかり易いという便利な面もあります。当時の戸数を60戸とみて、屋号でよばれる軒数が37戸ですから、その割合は約60%にあたります。世代が変った現在も、ムラの中で親しくよばれているのもそのためです。

つぎに、田彦の地名の由来と歴史をみてみましょう。「大日本地名辞書」からは、田彦の同地名は、他にはみあたりません。一説によると、某家の系図には「田彦」を「旅子」と記しているように、旅子とは古くは旅まわりの少年俳優をさし、戦国時代の地頭などが、好んで旅子の芸を観賞したといわれています。したがって、寄居屋(那珂町)の地頭であった平野豊前らに庇護されて、住んでいたところから、旅子が後に田彦の地名となったともいわれています。

つぎに、田彦の歴史をみてみますと、田彦はもと菅谷村から分かれて独立したが年代は不明です。中丸川水系の上流であり、早くから人ぴとが生活を営んだ形跡がみられます。古墳も前方後円墳1基、円墳21基が近年まで残されていました。しかし、現在は4基だけです。鎌倉時代には、吉田大縁の一族、吉田為幹(藤佐久五郎)、その子持幹(藤佐久次郎)によって支配され、その館跡が、近年まで現在の寄居団地敷地内に残されていました。また、貞和3年(1347)には、波木井弥太郎真茂の発願によって、日連宗の妙経寺が建立されました。しかし、この寺院跡は明らかではありません。

江戸時代の延宝9年(1681)に、礫場(刑場)が設けられました。また、田彦には水戸藩の宝永一揆で有名な田彦村又六という人物がいます。この又六は、歩行夫とよばれた運搬労働者でした。ある日、又六が一人の武士の荷物を運んでいる時、その武士が紅葉運河などをつくるため、領民を苦しめた悪名高い松波勘十郎の手代とも知らずに、さんざ松波の悪口をいって捕えられてしまいました。この又六を救わんと、水戸領内の農民1500人が、江戸の小石川水戸藩邸に押しかけ、やっと放免されるという、宝永一揆の主役となった人です。いかにも宿駅田彦、ならではの歴史がしのばれます。

天保年中の石高は384石、戸数40戸。明治6年の大小区制で第八大区四小区、明治17年の運合村では、高野村連合村、明治22年の町村制の施行によって、佐野村大字田彦となりました。(市史編さん事務局)

【注記】市町村名など表記や表現などが当時のものとなっています。

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