昭和の記事から13〜足崎のうつりかわり

「市報かつた」に昭和53年から昭和54年にかけて「文化財めぐり」として掲載された”ムラのうつりかわり”(全18回)を紹介します。(13/18)

足崎

(市報かつた昭和53年12月25日号掲載)

佐和の上稲田が、竹篭などの特産地であったのに対し、足崎は篠て編む笊(ざる)の特産地として、近郷近在に知られていました。足崎でこの篠細工が始められた起源は、明らかではありませんが、すてに、江戸時代のころから盛んであったことは確かてしょう。明治・大正時代には、ムラの戸数90戸余りのうち、大半の家では農閑期、あるいは、夜業仕事として、笊などを作っていたといわれています。

材料の篠は、おもに米崎(那珂町)、常陸太田の在辺りから買い入れたそうです。笊を作るときの行程も分業化されていて、たとえは、”腰上け”とよばれる笊の灰部を編む作業は、おもに女の仕事で、それ以外の”廻し”とよばれる編んでいく作業”ふじまき”とよばれる仕上げ部分の作業は、高度の技術と力を必要としたので、おもに男の仕事とされていました。かご作り

こうして製造された笊は、定期的に廻ってくる、ムラの仲買人が買い取っていきました。磯笊など、岩場で海草をかき取るときに使う特殊な笊は、婦人達が湊、平磯方面へ早起して商に出かけ、昼時分までには全部売って帰宅したと、今年86歳になる老姿は、当時を懐かしげに回想しています。笊や篭が、当時は生活必需品で、かなり需要が多かったことがわかります。このため佐野村辺は「篭製造組合」が組織されています。大正7年ころの価格を見てみますと、負篭(方言ではショイ篭)か、上等で1円20銭、魚を人れて持ち運ぶサジマ篭が、15個で30銭などと取り決められています。以前、日常使われていたものに、たとえば、麦などは直接食べられないので、一度煮立てから笊に入れ、水に浸しておくイマシ笊(方言でブチャゲ笊)うどんを中ゆでたときに釜からすくいあげるショウギ、みそこし笊、ご飯笊、イビラなどがありした。しかし、近年は食生活の変化とともに、こうした民具は、ほとんどみられなくなりました。

つぎに、足崎の地名の由来をみてみましょう。「大日本地名辞書」からは、足崎の同一地名はみあたりませんが、大良、多艮、良川、足田の地名は福井、秋田、山口、佐賀の各県にみられます。一般にこれらの地名は、谷津が入り組んだ丘礁地上の平垣地を意味するともいわれています。いずれにせよ、地形上からよばれるようになったのは確かでしょう。この足崎は、寛政3年(1791)2月、金久村と村名を変えましたが、天保年中に、ふたたび、もとの足崎村に改められました。

足崎の歴史は古く、字原ノ寺地から石器が出土しています。すでに、一万年前の先人の生活の跡を物語っています。多良崎城周辺からは、縄文時代早期の遺跡も確認されています。また、奈良から平安時代(推定)、原ノ寺地内には寺院が建立されていたらしく、寺院の屋根瓦を焼いた瓦窯跡が、有名な原ノ寺瓦窯跡です。

鎌倉時代には、常陸大椽の族、吉田里幹(多良崎三郎)が地頭として土着、字北根の奥山とよばれる所に館を築き支配していました。南北朝時代になると、世の中が乱れ、真崎浦に面而した半島状の要害の地に、館を築き移り住みました。これが市の史跡指定になっている多良崎城跡てす。南北朝時代には、常陸大椽一族が没落し、一説には、新に藤原系の郡司氏一族との地頭の交替があり、那珂通重の末裔、足立五郎左衛門(後の照沼氏)によって支配されます。しかし、天正18年、那珂氏の水戸城攻略のさい、足立氏は佐竹軍に降し、配下になったといわれます。

元禄15年の石高は687石、天保年中の戸数は98戸。明治6年の大小区制で、八大区四小区、同15年の連合村では長砂、馬渡三力村の連合村、明治22年の町村制の施行で前渡村となりました。(市史編さん事務局)

【注記】市町村名など表記や表現などが当時のものとなっています。

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