昭和の記事から12〜長砂のうつりかわり

「市報かつた」に昭和53年から昭和54年にかけて「文化財めぐり」として掲載された”ムラのうつりかわり”(全18回)を紹介します。(12/18)

長砂

(市報かつた昭和53年12月10日号掲載)

nagasuna

馬渡上宿の追分け付近から長砂横道にかけて、市内ではただ一カ所、江戸時代の街道の名残りをとどめている松並木があります。この松並木を過ぎると長砂です。長砂について「水府史料」には、つぎのように記されています。

「旧横道、長砂二村、元禄12年辰年、一村に合せられる-略-鹿島より岩城への道筋なり、古昔は水戸城下より奥州への道筋も比所なり」

長砂は元禄12年(1699)に、横道、長砂を合併して一村にしたとあります。この横道は、千々乱風によって、沢田浜から移住してきて、一つのムラを形成し、現在の中宿は、さらに、この横道から分家して形成されたムラといわれています。この他、長砂の村落形成を知る手がかりとして、とくに、小字名を注意してみる必要があります。たとえば、塙、東屋敷、西屋敷、南屋敷、北屋敷などの地名がありますが、これらの地域は、長砂の本郷であったのでしょう。江戸時代になって、商品経済が発展するにつれて街道も整備され、ある者は移転し、ある者は分家して、街道沿いに家屋敷を構え、今日のような長砂宿が形成されてきました。しかも、家の配置などを、古地図で注意してみると、以外と区画整然としているのがわかります。とくに馬渡などは良い例で、今日の区画整理を思わせる一面があります。

つぎに、長砂の地名の由来をみてみましょう。「大日本地名辞書」には、同一地名は鳥取県下にありますが、他にはみあたりません。防風、新防風と地名にも残っているように、江戸時代に奥州地方から、松苗が那珂湊に荷揚げされ、各地で松の植林がおこなわれますが、射爆場跡地内の、現在の砂防林の大半は、江戸時代に植林されたものとみてよいてしょう。したがって、昔は砂地が長く続いており、こうした地形から、長砂とよばれるようになったのでしょう。

土地は砂地で、あまり農作物に適した土地とはいえません。大内地山は「前渡郷士誌」の中で、長砂の人達はよく働き、風習も悪くない。ただ、田圃でないので生計は決して余裕があるとはいえない。農閑期は、松マキを割ることを副業としていたと書いています。後に副業としての特産物、甘藷切干(乾燥芋)生産になるわけですが、実は、この甘藷切干生産の功労者の一人が大和田熊大郎です。大和田熊太郎は、慶応元年8月、長砂村に生まれました。明治39年前渡村長に就任し、3年後の明治43年に、静岡県から甘藷切干の技師を招いて、農民に指導させたのがはじまりてす。また、長砂村は他の地域に比べて、早くから教育に熱心であったことが、ムラの特徴としてあげられます。旧制中学などへの進学率は、おそらく市域のムラの中では、もっとも高いと思われます。これらの要囚としては、経済的な面ばかりではなく、貧しいムラだけに、教育を一種の投資とする考え、あるいは、生活環境など、いくつか考えられますが、特産物にしろ、教育にしろ、決して偶然にして生まれたものではないことかわかります。

つぎに、長砂の歴史をみてみますと、長砂、原山、塙などの各遺跡から、先土器時代の石器や縄文時代前期の遺物が出土しています。すでに、一万年前に人々が生活を営んでいたことがわかります。鎌倉、室町時代には、豪族がいたらしく、字東屋敷から古瀬戸瓶子や多量の古銭が出土しています。また、このころ建立されたと思われる真言宗の寺院で、文秀院(横道)、密蔵院、清定院(長砂)もありました。元禄15年の石高は720石4斗、天保年中の戸数は83戸、明治6年の大小区制で第八大区二小区、同17年の連合村では高野村連合村、明治22年の町村制の施行で、前渡村となりました。(市史編さん事務局)

【注記】市町村名など表記や表現などが当時のものとなっています。

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