昭和の記事から11〜馬渡のうつりかわり

「市報かつた」に昭和53年から昭和54年にかけて「文化財めぐり」として掲載された”ムラのうつりかわり”(全18回)を紹介します。(11/18)

馬渡

(市報かつた昭和53年11月10日号掲載)

「馬渡とかけてなんと解く、裸馬と解く、その心は、鞍が無い」

mawatari
天保検知絵図

これは、江戸時代から明治初年ごろの馬渡宿の景観を、誰かが皮肉くってなぞかけをしたものです。意味は「鞍」を「蔵」が無い、つまり貧しい宿場だという意味です。貧しさの原因は、つぎの二つが考えられます。一つには、田圃が少なく、それと、海岸に近いため耕地は砂分が多く、当時は主要な作物であった麦年などには、あまり適していたとはいえません。もう一つの原因は、馬渡は湊と磐城、および、常陸太田、棚倉地方とを結ぶ街道筋沿いに発達した宿場で、とくに、江戸時代の商品流通の発展にともない、那珂湊に出入りする荷駄の輸送で大変にぎわいました。しかし、当時は宿場の一般的な風紀として、酒食にふけり、賭博などが盛んにおこなわれ、せっかく稼いだ駄賃も、一夜にして使い果してしまうというような生活面も一つの原因だったようです。「馬渡のバカ宿」「菅谷のバカ宿」「佐和のボロ後家ばかり」などとよばれたのも、多少、意味は異なる面もありますが宿場に共通した風紀であったといえるでしょう。

このような荒廃した農村経済のたて直しに、功を奏したのが、明治40年代からはじまる特産物しての甘藷むしきり、つまり乾燥芋の生産でした。前渡村では、先進静岡県磐田郡の甘藷切芋組合を視察、あるいは、技師を招いて生産に着手、大正期には東北はもとより、北海道、カラフト方面にまで出荷するなど、一躍乾燥芋の特産地として、全国的にその名が知られるようになりました。

つぎに、馬渡の地名の由来と歴史をみてみましょう。馬渡の同一地名は、千葉県、福島県などにみられます。県内では茨城町長岡にあります。しかし、馬渡を「マタシ」、「ウマワタシ」などとよんでいます。したがって、一般には、川などのために馬でなければ渡れない所から名ずけられとする説のようです。

つぎに、馬渡の歴史をみてみしょう。もっとも古い時代の遺跡では、本郷川流域の谷津田に面した台地から、先土器時代の遺物、石器が出土しています。すでに、一万年前に人々が生活を営んでいたことがわかります。縄文、弥生時代の遺跡も多く、なかでも、昭和44年8月4日付で、国指史跡となった馬渡埴輪製作跡が有名です。

中生の遺跡では、一説には、大山四郎左衛門の居館と伝えられる館跡が、通称大山とよばれる地に近年まで残っていました。文禄年中の佐竹氏支配時代は、東義久の給地で、石高は馬渡、武田両村合わせて268石8斗、元禄年中の石高は、馬渡村だけで522石2斗と増加しています。これは、明らかに大規模な新田開発が行なわれたことをしめしています。そこで、注目すべきことは「千々乱風」とよばれる伝説です。この伝説は、馬渡本郷を除く上、中、下宿あたりのムラの人々は、はじめは沢田浜とよばれる海岸沿いの青塚村、二亦村に住んでいましたが、元和年中、江戸時代初期に、三日三晩、また一説には75日間も大風が吹きあれ、このため沢田浜の部落は砂で埋没してしまい、生活ができなくなって、現在の地に移住して馬渡村ができたと伝えられています。寺院などの縁起にも、もと青塚村にあったといわれる青塚山成等寺や、また、県内では珍しいオシラ神信仰、オシンメ様で知られる沢田山多宝院も、沢田浜にあったと伝えられています。

天保年中の戸数は130戸。明治6年の大小区制では、第八大区捌二小区、明治15年の連合村では勝倉、平磯など五力村の連合村や明治22年の町村制の施行で、前浜村(那珂湊市阿字ケ浦)、馬渡村、長砂村、足崎村の四力村が合併して前渡村となりました。そして、役場・学校などがおかれ、村心の行政、文化の中心地でもありました。(市史編さん事務局)

【注記】市町村名など表記や表現などが当時のものとなっています。

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