昭和の記事から10〜堀口のうつりかわり

「市報かつた」に昭和53年から昭和54年にかけて「文化財めぐり」として掲載された”ムラのうつりかわり”(全18回)を紹介します。(10/18)

堀口

(市報かつた昭和53年10月25日号掲載)

かつて「勝田市史民俗編」の出版にあたり、堀口の民俗調査がおこなわれました。その調査結果は「勝田市の民俗」(勝田市史編さん史料2)に収録されています。この中から堀口の戸数の変遷、ムラの大きな出来ごとなどの一部を古老の話から紹介してみましょう。

堀口の集落は、古くは宮林(現在日立製作所勝田工場)の方にありましたが、日照りがあって、現在の地に移住、当時の戸数は5戸くらいだったといわれます。江戸時代の天保年中には33戸、明冶43年ころは21戸に減少、大正10年ころに32戸と天保年中の戸数に戻り、昭和10年代の日立製作所の進出にともない、以後急激に人口増となったと伝えられています。

このように、堀口はムラとしては小規模な方てすが、ムラでのでき事は、時にはムラの大事件として、のちのちまても語り伝えられています。例えば、明治36年ごろ、赤痢が流行して、7、8人死亡したといわれ、また、明治43年ごろに、お彼岸の餅をやいていて出火し、ムラ全体で20戸の戸数のうち、7戸も焼失するという大火に見舞われたことなどが語り伝えられています。

つぎに、堀口の地名の由来と歴史をみてみましょう。堀口は、中世には古田盛家(堀口八郎)の支配領地でしたが、市毛にムナセ堀の地名があり、堀跡が残っているように、早戸川の水を堀口まで引き、那珂川北岸を開田しようとした、当時としては画期的な事業で、このムナセ堀が堀口側から掘り進められたところから地名が名付けられたといわれています。したがって、堀口の地名は、すでに嫌倉時代に名付けられていたことになります。

歴史をみてみますと、まず、もっとも古い遺跡としては、現在のところ弥生後期以降の遺跡が確認されています。また、奈良時代のころの土器に「里」という字が書かれた墨書士器なども出土しています。鎌倉時代は、前にも述べたとおり、吉田盛象(堀ロ八郎)の支配頒地でした。佐竹氏が支配した時代は、堀口は東義久の知行地で、文禄4年の石高は130石7斗。水戸藩時代の寛永23年(1635)の石高は183石2斗で、藩士岡田惣十郎の知行地でした。また、堀口は城下に近いところから江戸時代初期ごろ侍屋敷(下屋敷)が置かれていました。大柊

神社仏閣では、まず、昭和13年12月27日県指定の天然記念物「大柊」で知られる金砂神社があります。寺院では、現在廃寺となっていますが、天文21年(1551)開基の妙房院清水寺、弘治3年(1557)開基の阿弥陀院、その他八方山高徳寺、観音寺などの真言宗の寺院がありました。現在の竜虎山密蔵院光明寺は、天仁元年(1108)の開基と伝えられています。この光明寺の境内にある観爵堂には、十一面観音像が安置されており、60年に一度、逗子の扉を開いて人々に拝ませる開帳がおこなわれます。水戸33カ所観音霊場のうち、第2番札所の霊場で、安産、頭痛にご利益があるとされ、参詣者で大変にぎわいました。また、宝暦9年(1759)に、後宮の女が光明寺を詣で、その時「カキリナキ光リノトケキ国ナレヤミチノクマテモ来ル嬉シサ」と、宮女が和歌を詠じて寺僧に贈ったと「水戸紀年」に記されています。

明治6年、大小区制により第八大区四小区となり、さらに明治17年改正の連合村では東石川、足崎、他五力村の連合村、明治22年の町村制施行で川田村となりました。(市史編さん事務局)

【注記】市町村名など表記や表現などが当時のものとなっています。

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