昭和の記事から9〜市毛のうつりかわり

「市報かつた」に昭和53年から昭和54年にかけて「文化財めぐり」として掲載された”ムラのうつりかわり”(全18回)を紹介します。(9/18)

市毛

(市報かつた昭和53年9月25日号掲載)

古来から、道路は単に人が行き来するための生活道路であったばかりではなく、中央と地方を結ぶ国家統制のうえからも、重要な意味をもっていました。たとえば、奈良時代には諸国に駅家を設置したり、鎌倉時代の鎌倉街道とよばれる古道が各地にみられるのもそれです。

現在市域の国道、県道は、江戸時代に定められた道路とみてよいでしょう。徳川幕府は、慶長9年(1604)に、まず旅行者の使用はかるために諸街道に一里塚を築かせ、そこに榎を植えさせるなど街道を整備させています。

現在の国道6号線は、江戸時代は江戸と水戸を結ぶ水戸街道、水戸から岩(磐)城平、陸興相馬を結ぶ岩城街道とよばれていました。明治5年5月の布告で、武州千住(東京)から常州水戸を経て陸前(宮城県)岩沼に至る道路が「陸前浜街道」と改称されました。明治6年8月には「河港道路修築規定」によって、陸前浜街道は二等河港道路に指定されています。さらに、明治9年6月には、等級が廃止されて国道、県道、里道の三道に区分され、道幅なども定められました。

市毛の坂
市毛の坂

市毛は技川、田彦、佐和などと同様に、街道によって発展したムラといえます。市域には「佐和の十文路」、「稲田の十文路」などがありますが、「市毛の十文路」も古くから親しくよばれてきました。また、「市毛の坂」も生活のうえで忘れがたい揚所といえるでしょう。かつて、田彦や佐和の人達はもとより、古くは石神(東海村)あたりの人達は、収穫した穀物を金輪の荷車に積んで、下市(水戸市)の穀市場まて砂利道を運んで行った時代も、決して遠い昔の話しではありません。穀物を売った帰りには、しょう油やその他生活必需品を荷車に積んでくるわけですが市毛の坂は難所たったという苦労話が伝えられています。

つぎに、市毛の地名と歴史をみてみましょう。同一地名は県内では笠間市にみられます。しかし、「大日本地名辞書」ては、全国には他にみられません。市毛の意味は、市口、市前、市中などから考え合せると、やはり市が開かれたそれと関係があるようてす。たとえば、隣接の津田に「草市」とよばれる小字があります。草市とは、7月12日の夜、盆の精霊祭りに供える蓮の葉、おから、ほおずきなどを売る市、つまり、盆市か開かれたことを示しています。したがって、鎌倉時代のころ、周辺ではこのような市が開かれていたところから市下(市毛)と呼ばれるようになったとも考えられます。

那珂川に至る広い田圃を見下す台地には、古くから人々が生活を営んできた形跡がみられます。縄文前期の遺跡をはじめ、多くの道跡が確認されています。鎌倉時代のころは、市毛六郎(古田茂幹)の支配地で、国道沿いの旧浄水場周辺の台地に、かつて、市毛氏の地頭館跡があったと伝えられています。また、寺院では、鎌倉時代のころ建立されたとみられる天台宗の寺院、富貴山円福寺がありました。この寺院は、いつごろ廃寺になったか明らかではありません。現在は日蓮宗の寺院、無二亦寺があり、江戸時代には、5月5日に蛇除けの御守りを出すことで、近郷に知られていました。

この地、寛文年中ころの有名な刀鍛冶、大和守吉道が、水戸藩与力、市毛村在住の白石長衛門の招きで市毛に住し、坂下の不動滝の水をもって鍛錬したと伝えられています。文禄年中の石高231石、元禄年中の石高533石、天保年中は原坪、本郷坪からなり戸数53戸でした。

明治6年の大小区制で第八六区四小区、明治15年の連合村では東石川、後台、他九力村の連合村で、明治22年の町村制の施行によって、川田村となりました。(市史編さん事務局)

【注記】市町村名など表記や表現などが当時のものとなっています。

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