昭和の記事から8〜津田のうつりかわり

「市報かつた」に昭和53年から昭和54年にかけて「文化財めぐり」として掲載された”ムラのうつりかわり”(全18回)を紹介します。(8/18)

津田

(市報かつた昭和53年9月10日号掲載)

かつて、ムラ境にある広い田圃や川原で、ムラとムラの間で、子供同士がか大声をはりあげて、お互いに相手のムラをけなしあう風習がありました。たとえば

  • 「津田ツンヌケ山ばかり」
  • 「枝川イタチの住む所」
  • 「青柳カンナベくちばかり」

これは津田と枝川、青柳との間での罵声文句で、枝川や青柳(水戸市)の子供たちが、「津田は山ばかりだ」というと、津田の子供たちは負けずに「枝川はイタチが住む所だ」「青柳はカンナベ(片口ともよばれ、しょう油さしなどに用いる器)のように口ばかりだ」けなす意味です。こうした罵声文句は、他のムラにもみられます。たとえば、長砂と足崎の間で「足崎田圃、米無し川圃」、勝倉と大野(水戸市)の間では「大野の学校ボロ学校」、高野と須和の間では「須和間やぽだよランプで暮らす」などがあげられます。

このような子供達の罵声文句なかで共通していることは「市毛一等良い所」というように、お互いに自分達の住むムラが一番艮いムラだという、ムラ意識をもっていたことてす。古くから、ムラに入ってくる者を容易に受け入れようとしない排他的な思想の一端を、子供の罵声文句からもうかがうことができます。

そこで「津田ツンヌケ山はかり」の実情をみてみましょう。今でこそ西山団地、天神山団地、駒形団地などの造成によって大変繁栄しましたが、昭和20年代のころまでは、市毛から後台(那珂町)に通じる道路の右側は、田彦境に至るまでは人跡床踏の地で、川深い山林におおわれていました。今から140年ほど前は、鹿や猪がたくさん生息していて、農作物が荒らされ、このため潰れ百姓か数多く出たという記録も残されています。

江戸時代には、水戸藩の御立山(藩有林)で、農民が勝手に立入り、樹木を伐採することは禁じられていました。わずかに字七軒前、下砂沢、鬼野谷原三カ所の五町五反歩が、津田、枝川、青柳、西連地(水戸市下河内)の四力村の入会地として、馬の飼料、肥科、燃料用として採草を許されていただけです。したがって、鹿や猪にとっては、かっ好な生息地であったわけです。

つぎに、津田の地名の起りと歴史をみてみましょう。「津田」という地名がでてくるのは、古い記録では、鎌倉時代の「常陸国作田惣田文」(弘安田文)に「津田12丁」と記されています。津田の地名は全国的にみられる地名ですが、「津」は多い、あふれる、あるいは古くは船錫・渡し場という意味もあります。しかしここでは、川が多いところから津田の地名が名付けられたものと思われます。

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津田天神山遺跡

歴史的にも、古くから人々が生活を営み、縄文・弥生時代の遺跡も多くみられます。また、かつて天神山や西山には古墳があり、「水府志料」に、古墳が八基存在したことか記されています。さらに、戦国時代のころに築かれたとみられる豪族の館跡も天神山に近年まで残されていました。この天神山からは、当時の豪族の墓石と川思われる五輸塔が何基か出土しています。さらに、佐竹氏が支配したころは、市域の大半が佐竹の臣東義久の知行地であったのにもかかわらず、津田は佐竹義宣の直轄地となっており、このことは、津田が重要なムラであったことがわかります。

江戸時代の元禄年中の石高は616名、天保年中の戸数は76戸、現在は2370戸と31倍で「津田ツンヌケ山ばかり」といわれた昔の面影はありません。明治6年の大小区刮により第一八大区二小区となり、明治15年には高野、東石川、足崎、佐和、枝川、後台の連合村、明治22年の市町村制の施行で川田村となりました。(市史編さん事務局)

【注記】市町村名など表記や表現などが当時のものとなっています。

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