昭和の記事から7〜枝川のうつりかわり

「市報かつた」に昭和53年から昭和54年にかけて「文化財めぐり」として掲載された”ムラのうつりかわり”(全18回)を紹介します。(7/18)

枝川

(市報かつた昭和53年8月10日号掲載)

明治39年正月25日、午後7時半ごろ、枝川宿の民家から出火し、火はおりからの強い季節風にあおられてたちまち密集した宿の一部を類焼してしまいました。焼失戸数40戸、物置小屋などを合せると100棟におよんだといわれますから、勝田市域の火災史上では、元治の乱以来の大火といえましょう。枝川の大火は、7年前の明治32年7月にも、小鮒町で起っています。

しかも、この年の8月には、この火災に追い討ちをかけるかのように赤痢が発生しました。当時の「いはらき新聞」は患者数60余名で、他に何人患者が潜んでいるか判明しない、葬式は週に三、四回はおこなわれている、と惨状を伝えています。

また、枝川は那珂川、早戸川の洪水に、たびたびみまわれてきました。洪水の古い記録では、天明6年(1786)7月16日の洪水で、水位は家の戸口の鴨居を越える(2メートル)という大洪水で、村民が船に乗り、市毛・津田台地に避難するものは数を知らず、住宅57軒、物置小屋53軒が流失したと書かれています。このように枝川の歴史をみたばあい、洪水、疫病、火災との戦いの歴史であったといえるでしょう。IMG3062

しかし、那珂川は洪水という災害をもたらしながら、一方では経済、文化の発展に大きな役割を果してきました。江戸時代には、江戸と奥州を結ぶ浜街道の渡船の宿場として、また、那珂湊と江戸、あるいは、栃木県那須地方を結ぶ舟運の中継所として、仙台藩御用河岸(仙台河岸)、二見河岸、五兵衛河岸が設けられ、早くから栄えてきました。天保年中のころの特産物として知られる枝川の木綿の黒染なども、那珂川を利用して発展した産業といえるでしょう。

つぎに、枝川の地名の起りと歴史や更跡をみてみましょう。地名の起りについては「水府賃料」に「弘安2年(1276)作田惣勘文、枝川9町6反とあり、早戸の小流此村に至て那珂川に落、枝のごとし、よって村に名付けしなるべし」と書かれています。枝川の地名が、すでに鎌倉時代のころから名付けられていたことがわかります。全国には同一地名は見あたりませんが、一般に「枝」は「江田」、「衣田」の漢字をあてているようです。したがって単なる景観から起ったというより、むしろ水田と深い関係があるように思われます。

中世江戸氏が支配していたころは、江戸通房の子、通弘(枝川氏)が、城を染き、水戸城防備方々、枝川地域を支配してきました。しかし後の天正18年(1590)12月、佐竹義重の水戸城攻略のさいに、時の地頭枝川播麿守重氏は討死して、枝川氏は滅びました。

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枝川宿

現在も枝川城の堀跡が枝川字城の内に一部残っています。また、親禄の直弟子唯仏房が開山したと伝えられる那珂湊市館山にある浄土真宗の寺院、浄光寺は、もとは枝川にあったのです。このほか、江戸時代半ばころは、花柳街としても知られ、花柳街として有名な祝町(現大洗町)は、実はこの枝川宿から藤柄(現水戸市)に移され、さらに祝町に移されたものです。

元禄年中の石高は1253石、天保年中の戸数129戸、石高とも市域では大きなムラです。明治6年の大小区制では、第八大区三小区、明治15年の連合村では、第二大区・二小区、明治22年の町村制の施行によって、川田村になりました。川田村の村名は枝川の「川」と津田の「田」をとって名付けられました。この川田村時代は、役場、学校、郵便局、巡査駐在所などの所在地で、行政、文化の中心でもありました。(市史編さん事務局)

【注記】市町村名など表記や表現などが当時のものとなっています。

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