スポーツを通して交流・研修会

地域にスポーツを楽しみ、交流できる場を創っていくために

平成27年7月4日、みなとWaiWaiクラブと東京都目黒区のスポーツ推進委員の合同研修会がひたちなか市の那珂湊体育館などで行われました。

研修会では、みなとWaiWaiクラブの事例を紹介した講義・意見交換のほか、ヘルスバレーボール、パンポンなどの実体験を通して、総合型地域スポーツクラブの発展に必要な情報や取り組みを学びました。

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昭和の記事から7〜枝川のうつりかわり

「市報かつた」に昭和53年から昭和54年にかけて「文化財めぐり」として掲載された”ムラのうつりかわり”(全18回)を紹介します。(7/18)

枝川

(市報かつた昭和53年8月10日号掲載)

明治39年正月25日、午後7時半ごろ、枝川宿の民家から出火し、火はおりからの強い季節風にあおられてたちまち密集した宿の一部を類焼してしまいました。焼失戸数40戸、物置小屋などを合せると100棟におよんだといわれますから、勝田市域の火災史上では、元治の乱以来の大火といえましょう。枝川の大火は、7年前の明治32年7月にも、小鮒町で起っています。

しかも、この年の8月には、この火災に追い討ちをかけるかのように赤痢が発生しました。当時の「いはらき新聞」は患者数60余名で、他に何人患者が潜んでいるか判明しない、葬式は週に三、四回はおこなわれている、と惨状を伝えています。

また、枝川は那珂川、早戸川の洪水に、たびたびみまわれてきました。洪水の古い記録では、天明6年(1786)7月16日の洪水で、水位は家の戸口の鴨居を越える(2メートル)という大洪水で、村民が船に乗り、市毛・津田台地に避難するものは数を知らず、住宅57軒、物置小屋53軒が流失したと書かれています。このように枝川の歴史をみたばあい、洪水、疫病、火災との戦いの歴史であったといえるでしょう。IMG3062

しかし、那珂川は洪水という災害をもたらしながら、一方では経済、文化の発展に大きな役割を果してきました。江戸時代には、江戸と奥州を結ぶ浜街道の渡船の宿場として、また、那珂湊と江戸、あるいは、栃木県那須地方を結ぶ舟運の中継所として、仙台藩御用河岸(仙台河岸)、二見河岸、五兵衛河岸が設けられ、早くから栄えてきました。天保年中のころの特産物として知られる枝川の木綿の黒染なども、那珂川を利用して発展した産業といえるでしょう。 昭和の記事から7〜枝川のうつりかわり の続きを読む