昭和の記事から6〜三反田のうつりかわり

「市報かつた」に昭和53年から昭和54年にかけて「文化財めぐり」として掲載された”ムラのうつりかわり”(全18回)を紹介します。(6/18)

三反田

(市報かつた昭和53年8月10日号掲載)

「プットーひった武衛門さん、その屁をかんだカソエム(勘衛門)さん、利ロショウエム(庄衛門)、我道甚平、蜆塚新兵衛、原半平、キヌブルイ(絹諦)、ケブルイ(毛翻)岡田のオカエム(岡衛門)ヨオーイヤサ。」

この文句は、明治の半ばごろ三反田の若衆連が、村祭りの御神輿出しのさい、ムラの中老達に注意され、それに反発して、このような文句を書き、神社の拝殿の戸に粘ったといわれています。意味は中老達がムラ協議のさい、まず、きまって談合の席で口火をきるのが圷坪の武衛門、それに調子を合わせる勘衛門、高井坪の庄衛門は思慮深い、言い出したら後に引かない甚平と蜆塚坪の新兵衛と原坪の半平、最後に絹や毛を締にかけるように物言に細かい岡田坪の岡衛門が出て、ようやくムラ協議が決まるという意味です。

三反田は圷、高井、岡田、蜆塚、新平などの各坪から構成されており、市域では一番大きなムラです。祭礼をはじめ、ムラの諸行事を実施するにあたって、それぞれの坪の代表者の中老達が集まって協議されるわけですが、ムラのもめごとなど難しい問題に直面した場合、「斉藤山会議」とよばれる特定な場所でムラ協議がおこなわれるなど、ともあれ、ムラやそこに集まる中老達の性格、特徴をよくあらわしている興味深い文句です。

三反田は、市域では唯一の穀倉地帯です。米はもとより、特産物も多く、たとえば、江戸時代に三反田村の百姓金左衛門が、一里塚(現水戸市)産の小美濃とよばれた瓜の種子を求めて栽培したのがはじまりといわれる「どんたつ瓜」や「菰子」の産地として広く知られていました。また、明治になって、二川精三が北千住(現東京)辺りに産したスギを取り寄せて作った赤皮の美味なネギは、別名「ゴンゾウネギ」、「ミタダネギ」とよばれ、県内外からも知られていました。

蒸気機関場
蒸気機関場

さらに、市域の近代農業史のなかて特筆すべきことは、明治40年2月10日、三反田で耕地整理事業に者手したことです。明治32年、耕地整理法が公布されて8年後のことです。耕地面積82町渉、工事予算総額6984円、組合員113名で、明治43年8月15日に工事が完了しました。この耕地整理事業の特徴として、10馬力のポンプ1台を使用し、那珂川から直接水をくみ揚げるという、当時としては画期的な事業でした。このアイテアは、もと日露戦争で軍艦に乗った三反田出身の兵士が機関兵で体得した技術を実施に生かしたものです。

つぎに、三反田の地名と歴史をみてみましょう。「天日本地名辞書」には、「ミタダ」と記されています。ところが現在では多くの人は「ミタンダ」とよんでいます。那珂湊に合併した地区は「美多田」と書いています。一般には「美田」、「三田」、「御田」、「箕田」などと漢字で書かれていますが、意昧はいずれも本田、つまり肥沃な水田を意味する地名で、全国的にみられます。

三反田は海や河に近く、早くから人びとが生活を営んできました。代表的な遺跡としては、有名な蜆塚貝塚をはじめ、三反田古墳群、高井遺跡などがあります。また、中生の地頭館跡では新平館跡、道理山館跡、現那珂湊市)などがあげられます。道理山館跡は、吉田大椽一族の道理山九郎(吉田盛清)の館跡といわれています。

元禄年中の石高は、1357石、天保年中の戸数は179戸,明治6年の大小区制では、第八大区三小区、明治15年には勝倉、中根両村との連合村となり、さらに、明治22年の市制、町村制の施行で勝田村になりました。(市史編さん事務局)

【注記】市町村名など表記や表現などが当時のものとなっています。

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