昭和の記事から4〜勝倉のうつりかわり

「市報かつた」に昭和53年から昭和54年にかけて「文化財めぐり」として掲載された”ムラのうつりかわり”(全18回)を紹介します。(4/18)

勝倉

(市報かつた昭和53年7月10日号掲載)

近年になって姿を消したお祭りとして、ヤンサマチをはじめ、荒野のの石尊様のお祭り、足崎の天主様のお祭り、中根のオドンマ祭りなどとがあります。勝倉の勝遊山(フナユサン)もその一つてす。この船遊山は、昭和12年ごろまでおこなわれていましたが、当時は県内では珍しい風流なおまつりでした。

盆の16日、ハンソウあるいは、コダラシとよばれた船に屋台を組んだ船が、枝川や大杉山(水戸市)、遠くは磯浜(大洗町)や海老沢(茨城町)方面から船渡に集まりました。船中では笛、太鼓、鉦(かね)のお囃子に合わせて、ひょっとこ踊りが競われるなど、船渡は一年中で一番にぎわったといわれています。

勝倉の船遊山は、もともとお阿跡陀様で知られる道明寺とのつながりを持つ祭礼です。当日寺院でもゴマをたいて仏を供養する行事がおこなわれますが、この日はちょうど盆の精霊送りの日でもあり、それに、道明寺が再興された日でもあり、これらが習合して、木尊の阿弥陀如来にご利益を願う地域民の熱心な信仰から、船遊山という風流な祭りが生まれたものと思われます。

舟遊山

つぎに、勝倉の地名の起こりと歴史をみてみましょう。県内に勝倉という地名は、他にみあたりません。民俗学者で有名な柳田国男は、地名の研究の中で、まず「倉」を倉庫の意味てよんでいる地名はみあたらないといっています。東北地方では、むしろ丘陵地が侵飾を受けた地形をさしていて、つまり、地形に由来して名ずけられたと説明しています。中世では、一時期、勝倉を「倉員」(クラカズ)とよんだこともありました。「員」は「数」ですが、意味は明らかではありません。

勝倉は遺跡や史跡の豊富なムラです。縄文・弥生時代の遺跡をはじめ、大平・勝倉両古墳群があります。とくに、大平古墳群から出土した狩猟の線刻壁画や、乳飲み児を抱いた埴輪は有名です。また、奈良時代には、一説によると弘仁6年(815)に、国府と奥洲を結ぶ山川駅とよばれた駅塚(うまや)が、長者ケ谷津付近に置かれたともいわれています。

勝倉城には、吉田大檬一族の吉田俊幹(勝倉四郎)が居城して、勝倉地域を支配しました。勝倉城の築城年代は不明です。城ははじめ地蔵根に築かれ、その後現在の小学校敷地に、南北朝時代の戦乱で、さらに防備を固めるために築城されたとみられています。室町島代末期の天正18年(1590)水戸城攻めのときに、勝倉城は佐竹義重の軍によって落城、勝倉氏は滅ぼされました。

江戸時代になると、商品経済の発展にともない、那珂川の舟運が盛んになり、対岸の古沼とを結ぶ船渡が開け、薪河岸なども開業され、宿屋や雑貨屋などが軒を並べて、船渡の宿は大変繁栄しました。こうした発展は、文化面にも大きな影響をもたらし、早くから多くの文化人が生まれ育っています。たとえば、寛政5年(1793)、蝦夷探検で知られる武石祐左衛門、わが国最初の民間飛行家、武石浩波、武芸家為我流三代目の鹿島武次衛門、俳人の幹翠園、幻窓清波、義彦、柳士、如洋、佐海などがあげられます。

元禄年中の石高は、1342石と、市内では三反田についで高い石高です。また、天保年中の組や戸数は上、中、下、台の四組で戸数は133戸でした。明治6年の大小区制により、第八大区三小区。明治15年には三反田、中根などの連合村で、勝倉村に戸長役場が置かれ、さらに明治22年の市町村制施行により、勝田村となりました。小学校や役場は船渡に設置され、まさに行政、文化の中心地でもありました。(市史編さん事務局)

【注記】市町村名など表記や表現などが当時のものとなっています。

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