昭和の記事から3〜武田のうつりかわり

「市報かつた」に昭和53年から昭和54年にかけて「文化財めぐり」として掲載された”ムラのうつりかわり”(全18回)を紹介します。(3/18)

武田

(市報かつた昭和53年6月25日号掲載)

常磐線の開通、勝田駅の設置、湊鉄道の開通、岩佐鉄工所、日立製作所の進出、勝田町の誕生というような歴史的経過をたどり、現在武田は、市の中心地となり繁栄しています。

武田は元町、中央町(一部)、泉町、春日町、本町など、その大部分の地域が都市開発によって、それぞれ区画変更がおこなわれ、新しい町名がつけられていますが、もともとこの地域は、いずれも昭和10年の半ばのころまで、広い山林や原野におおわれていました。そこで常磐線、勝田駅、湊線の開通などの歴史を少しくわしくふれておきましょう。

勝田駅
勝田駅

明治25年6月「鉄道敷法」が公布された3年後の明治28年11月、初めて水戸・土浦間が開通、翌年の12月には田端・土浦間が開通、明治31年8月23日水戸・岩沼間が開通して、今日の常磐線が全面開通しました。この常磐線は、初めは日本鉄道海岸線とよばれていましたが、明治39年10月「鉄道国有法」の制定によって、常磐線と改称されました。常磐線の開通にともない、明治30年2月25日に、佐和駅が開業しましたが、勝田駅の開業は、それから14年後の明治43年3月18日でした。この間、勝田駅を設置する計画がなかったわけではありません。当時の勝田村、中野村など大部分の村民たちにとって、病気のときや、買物、あるいは農作物の売買などは、水戸の下市とか那珂湊まで行かなければ用がたせないといった、いわは重要な生活圏の問題でもありました。そこで明治36年4月10日、当時の勝田村長大谷新介は、武田地内の常磐線に駅を設置する付帯条件として武田、那珂湊、平磯を結ぶ武平道の布設を申請し、それから10年後の大正2年12月に、今日の湊線が開通しました。

昭和初期の武田しかし、図で見るように、昭和11年ごろの駅の周辺は家もまばらで、大部分が山林、原野だっことがわかります。駅が設置され、水戸や那珂湊にも近く、平らで広大な立地条件が、昭和12、3年ごろから始まる岩佐鉄工や日立製作所などの進出のきっけになりました。ムラの移りかわりをみてみますと、武田の地名の起こりは古く、鎌倉時代に書かれた「倭名抄」に、那珂郡武田郷と記されていす。また、一説によると甲斐国(山梨県)の有名な戦国武将、武田信玄の始祖、武田冠者(源義清)は、この武田郷を治めていたが、大治5年(1130)に罪があって父子ともども甲斐国に配されたといわれています。

後にこの武田郷は、吉田大椽一族、武田七郎(平勝盛)よって支配されます。これらの地頭館跡は、湫尾神社前あたりから、自衛隊敷地内にある溜池にかけての台地にありました。しかし、今はまったくおもかげはありません。また、稲荷谷津近くに、多計多山照道寺があったといわれています。

真言宗の寺院で、願行流を常陸国北部に発展させた宥尊の弟子、宥棟が開山したといわれ、もとは下高場にあったものが武田に移され、現在那珂町菅谷にある武田山不動院は、さらに武田から移されたといわれています。このほか、大塚前という小字名があるところから。かつては古墳があったことも考えられます。

元禄年中の武田村の石高は、356石7斗、天保13年(1842)ごろの組や戸数をみてみると久保、猫山の二組、原の二坪からなり、戸数は48戸。現在は10倍の477戸です。明治6年の大小区制により第八大区三小区、明治17年の連合村では勝倉、三反田、中根との連合村、明治22年に勝田村となりました。今日の勝田市の名称は、勝田村が市名の起原で、勝倉村の「勝」と、武田・三反田両村の「田」をとって、勝田村と名づけられました。(市史編さん事務局)

【注記】市町村名など表記や表現などが当時のものとなっています。

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