昭和の記事から2〜東石川のうつりかわり

「市報かつた」に昭和53年から昭和54年にかけて「文化財めぐり」として掲載された”ムラのうつりかわり”(全18回)を紹介します。(2/18)

東石川

(市報かつた昭和53年6月10日号掲載)

勝田市の中央部に位置する東石川は、新興都市勝田の発展とともに、これほど大きく変ぼうしたムラもまれでしょう。日中戦争がはじまった昭和12年、そのころ大陸にいる兵隊にあてた小学児童の慰問の手紙に、現在の電報電話局付近から駅にいたるわずか数百メートルの道すじが、山林におおわれていて、一人ではさみしかったと書かれています。

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昭和43年の市役所本庁舎付近

東石川に初めて電気か引かれたのが昭和3、4年ごろ、大島・外野が14、5年ごろで、大正9年佐和駅前に電気が引かれたのに遅れること20年後であったから、いかにひなびた寒村であったことがしのばれます。

この東石川が大きな転換期をむかえたのが、日立製作所の進出にともなう昭和15年の勝田町の誕生でした。駅に近い隣接の武田地内に真新しい町役場が建てられ、また、中根小学校東石川分教場に通う一部の学年を除いて、それまで六ツ野、笹野原を通り4キロメートルほどもある道のりを通学していた生徒が、翌16年から東石川小学校に通学するなど、驚くような変ぼうぶりでした。

東石川のムラの移りかわりをみてみますと、現在の東石川のムラの名称は、天保14年(1843)外野村、大島村、外石川村(文禄4年のころは石川村)の三力村を合村して東石川村と改称されました。しかし、当時合村後の新しい村名をつけるにあたって、好みの名称があれば申してるようにと藩から達しがあったのですが、結果として東石川村となりました。このことから外野村の者達は、改称された村名は外石川村の外を東にかえたにすぎないと不満をいだいて、惣百姓が連名で改称の願書を藩に提出するなどの問題を起こしています。

改称されたいきさつは明らかではありませんが、当時外石川村が外野・大島両村より政冶的に発言権を有していたものなのか、あるいは、藩ではよく「水戸城東外石川云々」などと称しているところから、ただ単に東の字をあてたものか、いずれかでしょう。

明治6年の大小区制によって第8大区4小区、明治8年の大小区制の改正で第2大区2小区、明治15年には枝川村、後台村(現那珂町)、佐和村、高場村、足崎村、高野村、東石川七力村連合村、さらに明治22年の市町村制によって中野村というように移りかわりました。天保年中の戸数は外野村33戸、大島村30戸、外石川村30戸、検地帳によると田畑69町三反で分米521石、新田六反で分米3石と小規模なムラです。現在では約32倍の2943戸となっています。

名産物は特にありませんが、文化2年(1805)ごろ、水稲で粳の長次郎(晩稲)、糯のいくよ(晩稲)とよはれた品種が外石川村で作付され、領内でも知られていました。

名所・旧跡は、とりたてて目ぼしい所はありませんが、縄文時代の遣跡をはじめ、大島公園東方部に、かつて数基の古墳がありました。また、大島や外野に中世の土豪屋敷跡があり、他に天保年中に廃寺となった稲田東聖寺来寺の覚成院(補陀落山観音寺)廃止跡などがあげられます。また、近年流行神(はやり)がみとして、多くの参詣者でにぎわいをみせているツツジ神様が広く知られているところです。(市史編さん事務局)

【注記】市町村名など表記や表現などは当時のものとなっています。

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