昭和の記事から1〜中根のうつりかわり

「市報かつた」に昭和53年から昭和54年にかけて「文化財めぐり」として掲載された”ムラのうつりかわり”(全18回)を紹介します。(1/18)

中根

(市報かつた昭和53年5月25日号掲載)

中根は有名な虎塚や十五郎穴をはじめ、無土器時代の後野遺跡、縄文時代の君ケ台遺跡、弥生時代の東中根遺跡、その他中根城跡、福島藩士の墓など、遺跡や史跡に恵まれたムラです。中丸川・木郷川流域の台地には、早くから人々が生活を営み、後野遺跡から出土した石器などから年代を難測すると一万年前にまで遡るだろうともいわれています。

この中根の地名は、いつごろから使われ、呼ばれるようになったのでしょう。文献に出てくる最も古い時期のものとしては鎌倉時代中期、文暦2年(1235)で、当時「中根郷」などと記されています。もちろん文献以前にも呼ばれていたでしょう。地名の由来は地形的な面から名づけられたと思われます。中丸川と本郷川の間の台地、つまり「なかのね」です。根はねもと、はじめを意味します。この中根の地名は、県下で茨城町、桜村、大穂町など7カ所あり、しかも県南・西部にあるのが特徴です。

ムラのうつりかわりをみてみると、たとえば天保13年(1842)の倹地帳によると田畑130町9反、分米985石、新田田畑5町5反、分米15石、新開田2町1反、分米7石というようにかなり大きなムラであったことがわかります。もちろん東西両中根が一村となっていました。この中根に六ケ新田(中根、金上、三反田、柳沢、平磯、馬渡)と呼ばれ、六ケ村連接の荒野を開墾したところから名づけられた村が、天保年中に分村しました。検地帳によると465町9反、分米534石というから、六ケ新田もかなりの石高を有した村てあったことがわかります。

nakane
六ケ新田絵図

中根・六ケ新田両村は、明冶6年の大小区制により第8大区3小区に、さらに明治8年の大小区の改正で第2大区2小区にかわり、明治15年の連合村では勝倉村に編入、明治22年市町村により中野村というように移りかわりました。中野村時代には役場の所在地で行政、文化の中心となっていました。人口椎移をみてみると天保年中の戸数が169戸、現在の戸数は2216戸ですから増加率は、実に14倍になります。中根の特産物は、かつて中根カボチャが近郷に知られていましたが、現在は甘藷、甘藷切干などがあげられます。

さきに述べたように名所・旧跡は数多くありますが、わけても興味深いのが中根八景です。

  1. 長者ケ谷津の暮雪
  2. 八重崎の秋の月
  3. 大和田の落雁
  4. 柳町の帰帆
  5. 宮滝の晴嵐
  6. 七兵衛滝の夜の雨
  7. 福乗院の晩鐘
  8. 宿の内の夕照

この中根八景は、水戸八景にあやかって作られたもので、幕末から明冶・大正期ごろにかけ各地で盛んに作られ、近郷では塩ケ崎八景、勝倉八景などが知られ、俳人など文人が風流を楽しんだ様子がうかがわれます。

つぎに中根の代表的な風俗としてオドンマ祭り、八坂神社の御輿渡御があげられます。オドンマ祭りは東中根の鎮守鹿島神社の神事で、4月3日の祭礼の御輿渡御のさい、10歳前後の男児がその年の当番に当った区のなかから選ばれ、鎧、甲胃の姿で馬に乗り、御輿とともに村回りするという華やかな行事で昭和37、8年ごろまでおこなわれていました。この祭礼はムラの五穀豊饒と招福除災いを祈願したものです。

一方八坂神社の祭礼は6月25日に行なわれます。八坂神社は素戔嗚尊を杞るところから、疫病除けの神として知られ、荒々しい御輿渡御がおこなわれるわけですが、祭礼には当番の家の庭先に松竹に注連縄を張り、そのなかに御輿を安置するお仮屋が設けられ、祭礼がすんだ後、お仮屋に使用された松竹や庄連縄など一年間当番の庭先に束ねて立てて置くなど、比較的古い形をとどめた儀式がとりおこなわれています。(市史編さん事務局)

【注記】市町村名など表記や表現などが当時のものとなっています。

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