昭和の馬渡埴輪製作遺跡発掘画像を公開

今年発掘50年となる馬渡埴輪製作遺跡の、発掘当時の画像を公開しました。

ひたちなか市埋蔵文化財調査センターでは、平成27年5月から1ケースミュージアムで「馬渡埴輪製作遺跡発掘50年」を特集します。

(市報かつた昭和40年8月10日号)

馬渡にハニワ窯跡全国でも指折りの規模
市、明治大学共同で発堀

昨年の2月、勝田三中の工藤先生によって完全な馬のハニワが発見され、その後の調査によって、古代においてハニワを生産した窯跡であることが分りました。

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ハニワ窯跡は全国的にも数少ない貴重な遺跡であり、本県では常陸太田市太田山に次いで二番目の発見であり、全国でも十例ほどしか知られていないものです。

この付近一帯は将来、住宅団地造成の計画もあり、当市教育委員会ではこの機会に明治大学と共同で学術調査を実施することになったものです。ハニワ窯跡は登り窯といって台地のスソのゆるやかな斜面を利用し、そこを掘りくぼめてネンドで天井を作り、その中でハニワを焼いたものです。

馬渡地区では三ケ所にそれが分布していることが分っています。その保存状態や規模などにおいても全国でも指折りのものといわれ発掘の成果が期待されています。発堀を指導している明治大学の大塚初重博士は、「馬渡窯跡はハニワ生産に必要な良質のネンドや水燃料となる薪炭類にもめぐまれており、保存状態から見て画期的な研究ができる」といっております。将来、馬渡で生産されたハニワが茨城県下のどの古墳から出土するかを調べることによって、勝田を中心としたハニワの需要、供給の関係や社会機構なども明らかにされるものと思われます。発堀は明治大学生を中心として緑岡高、日立一高などの生徒の協力によって8月5日から開始され17日まで続ける予定になっています。

住宅地に生れかわるまでに三年計画で進められますが、今回は第一年目です。夏休み中でもあり、学生のみなさんは是非一度見学して下さい。

(市報かつた昭和40年9月10日号)

馬渡ハニワ窯跡完全な形で発堀
日本で初めての工房跡も

馬渡ハニワ窯跡の発堀調査については前号でお知らせしましたが、8月19日A、B、C三地点のうちA地点の発掘調査が完了しました。今後は詳細について発掘された土器などから研究が進められるわけですが、ハニワ窯跡の発掘調査は考古学の研究上からも注目されています。研究の結果においても貴重な報告がされるものと期待されています。この発掘完了により明治大学の大塚初重博士は次のような分を寄せてくれました。第二次、第三次の発掘調査は41、42年に行なわれます。

寄稿文

8月5日にはじまった馬渡ハニワ窯跡の第1次調査は予定通り19日に終りました。想えば泥と汗の15日間ではありましたが、満足すべき成果をえて苦労の仕甲斐があったというものです。
馬渡ハニワ窯跡は、昭和39年春に偶然の機会から勝田三中の生徒諸君によって発見の糸ロがひらかれました。いま勝田市公民館に保管されている馬のハニワは、うたがいもなく馬渡のハニワ窯から発見されたものでした。ハニワ窯跡とは、いまから1500年ほど前の豪族の墳跡にたてるハニワを焼いた窯の遺跡ということです。人物や動物などの形象ハニワのほか円筒のハニワなどもたくさん生産されたのです。いままでハニワの研究は、おもに古墳から発見されるものを対象とし、それも完全な形をそなえているハニワしか問題としない傾向がありました。

そのような豪族の墓に立てられたハニワが、どこで、どのようにして、いつごろ生産されたものかという歴史的な意義の研究は、ほとんどおこなわれていなかったのです。馬渡窯跡の調査は、このような考古学上の重要な問題をふくんでいるのみか、ハニワつくりの人々が、どのような生活をし、そして彼等の集団が当時の社会でどのような役割を示していたかという日本の古代史の上で、いまだ解決されていない多くの課題とも深い関係があるのです。調査中に東京や関西の考古学、古代史研究の専門家が数多く見学されたのも、こうした馬渡窯跡調査の重要性のあらわれと思われます。

さて、馬渡窯跡は数箇所の地点にわかれますが、今回の調査はそのうちA地点となずけた部分について実施しました。せまい谷にのぞむ低い台地の南端の傾斜面に、ほぼ東西にならんで9基もの窯跡が発見されました。この数は調査前に私が予想したものの倍以上であり、ハニワ窯の遺跡としてはA地点のみでも全国屈指の例になったわけであります。来年度以降の調査がおこなわれれば、これまでハニワ窯跡として知られる10例の遺跡のうち最大の規模になることはあきらかです。

ハニワ窯は底面が約25度くらいの傾斜をもったのぼり窯です、長さ5.6メートル、幅2メートル、深さ70センチ前後の楕円形で、中央がややふくらんでいます。窯の下の方に炊ロがあり、上の方にむかって燃焼室、ハニワをいれる焼成室とつづき、頂部に煙り出しの孔があけられたものです。

窯の内面は約700度前後の熱をうけているため、かたくそして赤く焼けています。炊口の前の方には、中からかき出した太炭や灰が厚く堆積し、ハニワの破片が多く発見されました。このようなハニワ窯が9基も2、3メートルの間隔をおいて一列にならんでいる状況から、ハニワを焼いていた当時の風景が想像されます。
すでにのべたようにハニワ窯跡の調査は県下では常陸太田市の太田山遺跡についで第二例目でありまた全国的には確実な例として11例目の遺跡でもあります。特筆すべきことは、6号とよぶ窯の構造ですが、クヌギの丸太を両壁に沿って打込み、それに横木をわたして天井をつくる施設としていたことが炭化材の完存によって、証明することができたことです。

さらに、窯の北側の台地上の平坦面からは工房のあとが発見されました。長方形の堅穴の中から、多量の粘士の塊と半焼成のハニワ類が出土し炉跡もみとめられているので、ハニワ製作の作業場と断定してよいと思います。このハニワ工房趾の発見は従来その例がなく学術上貴重な資料になるでしょう。

馬渡ハニワ窯趾の最終的な調査結果は、出土品の整理研究をまたねば提起できませんが、これほど大規模な、しかもよく保存されていた例は、はじめてであり今後の調査が期待されるわけです。
出土品としてはハニワ円筒のほか男子像などがありますが、破片資料はおびただしい数量です。

今後、これらの資料から勝田市周辺の古墳発見ハニワとの比較をして、馬渡産ハニワの供給圏の確認を是非したいものです。西暦6世紀頃の常陸国の一種の経済圏のような範囲が、もし求めることができれば、それは政治的にも文化的にも一つの領域を示すものかもしれません。勝田市の今日は、こうした遠い昔の祖先達の歴史の歩みのうえに一歩一歩築かれたものでした。いまでもえられる質のよい粘土と豊かな水と燃料とは、地形の好条件も一致して馬渡遺跡を古代の東国における主要なハニワ生産地域としていたようです。

ハニワ製作の工人達の住居も同じ台地にあったと推定されますから今後の調査で発、見できるでしよう。馬渡ハニワ窯跡は学術的に貴重な遺跡でありますが勝田市の皆さんにとっては、遠い祖先のたくましい生活のあとともいえましょう。産業の開発がすすんで、理想的な、ゆたかな暮しぶりができるころには、古き勝田をしのぶ文化財があとかたもなく滅びていたという状態だけはくいとめねばなりません。わたくしたち子孫のためにも、この貴重な遺跡を保存して後世に遺さねばならないと思います。

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