特集:武石浩玻(市報かつた昭和38年9月7日号の記事から)

(市報かつた昭和38年9月7日号より)

koha人間は一滴のしずくにも首うなだれる一本の葦にすぎない、しかしそれは考える葦である、といったのはフランスの有名な哲学者パスカルです。だが、人間は考えない葦であることもできます。雨にうたれ波にもまれながら空しく枯れて行く単なる葦にしかすぎない人間であることも。

私たちはこうした弱い葦になることを恐れています。誰一人として好んでこうした弱い葦になろうとする人はありません。それどころか、私たちは身近にほんとうに「考える葦」としての人間を見い出すと、ふるえおののくような励みを感じます。
そして、そんなほんとうの「考える葦」は案外身近にいるものです。たとえば、武石浩玻はそうした「考える葦」を地で行く人間ではないでしょうか。

武石浩玻は私たちの郷土が生んだわが国最初の民間パイロットといわれる人です。科学技術の先覚者の一人ともいえるでしょう。だが、彼が偉大な人なのは、その肩書きのためではありません。わが郷土が誇っておしみないのは、何よりも彼が考える人であったということです。

いま私たちは美しく、しかも力強い郷土をっくりあげようとしています。この成功の鍵はいくつかあるにせよ、その最も大きなのは私たちのたゆみない考える心と強靱な精神にあると思われます。

浩玻がどのように考え、どのように生きたかを知るのは、こうしたところからも意義があると思います。それに加えて今年は浩玻生誕80周年記念の年、また50回忌の年でもあります。9月20日の航空記念日のある今月号で、浩玻の特集を行ない、市としてのささやかな慰霊としたいと思います。

民間最初のパイロット 人間この劇的なもの

武石浩玻については市内には知っている人も多いでしょう。浩玻は明治17年(1884)10月20日、茨城県那珂郡勝田村勝倉に生れた。父は利兵衛、母はなつ子、浩玻は三男であった。幼各を道之介と言った。この浩玻出生の年は加波山事件が起った年である。水戸中学が開校されたのは、明治13年(1880)であるから、浩玻の生誕に先立つこと4年である。

その水戸中学を明治35年に浩玻は卒業した。この卒業の日、彼は「ぼくは南米へ行くんだ」と言って式には出席しなかった。この頃、すでに彼は平凡な学生ではなかった。卒業を間近に将来のことなど話し合っている友人たちの中で、彼は終始沈黙を守り、進学就職のことなどてんで気にする風もなかったという。

水中を卒えた年の4月、浩玻は横浜から欧州航路の汽船ヘポーイとして乗りこみ、短期間のうちにいったん帰郷し、こんどは北アメリカへ向った。欧州航路の汽船ボーイに見切りをつけ、北米で勉学をする決心をしたのである。そしてわが国最初の民間パイロットとなって帰郷するまで、浩玻は日本の土を踏むことはなかった。それは、栄光に包まれた帰郷の時から
見れば、輝かしい旅路の出発であったが、その時の浩玻の出発は必ずしも明るいものではなかった。
むしろそれは十余年にわたる北米の放浪の旅への第一日目であった。

男子四方の志あり
祖先に幕末の探検家

この北アメリカの放浪時代について書く前に、浩玻を生んだ武石家について書いておこう。
武石家はもと武田氏の家臣で、その後佐竹氏に仕えていたが、佐竹氏が秋田に転封になってから勝倉に土着し、帰農したということです。

その前、寛政年間(18世紀の後期)に至って、武石家から武石子新(のちに砧需衛門と称す)と
いう人があらわれ、幕未の探検家として名をなした。つまり武石子新は、寛政5年(1793)の1月「海防集説」の著者である立原翠軒の命で木村謙次(当時の有名な探検家)と一緒に北海道視察をした。この時の謙次・子新らの報告書が、幕府に北辺防備を急がせることになった。

次いで寛政10年(1798)4月15日、謙次、子新ら一行7人は再び北辺視察に出発し、こんどはクナシリ、エトロフ島にまで足をのばした。これがエトロフ島に「天長地久大日本国恵登呂村」という標柱を立てた有名な近藤重蔵守重らの蝦夷探検です。
この武石子新は、薄の祖父理左衛門の弟に当る人です。いまも勝倉の阿弥陀院(アミダいん)に祭られています。
そして朋治の代になって武石家に浩玻が生れるわけですりしかし幼少のころ、浩玻はどちらかと言えば臆病な子だったと言う。雷や獅子舞の面にもふるえおののくほどだった。

ところが水中へ入学し、毎日二里の道を通学するようになってから、精神的にも肉体的にも全く頑健になり、冒険心に富むようになったと言う。ある時など、隣りの中野村釜神神社裏の怪窟に深夜明松を持って見極めて来るという豪傑ぶりを発揮した。

勉学の方は中学へ行ってからも相変らず優秀で、ずっと優等し続けた。そして、浩玻は大の文学青年だった。アメリカに行って飛行機に出会うまで、ずっと文学者になろうと思っていたらしい。水中時代はとくに詩文と数学に抜群の成績を示した。
浩玻の中学時代、口本の詩壇、歌壇は、詩では「文庫派」が、歌では与謝野鉄幹の「明星」が専有していた。とくに鉄幹の「明星」は、旭の昇る勢いであった。浩玻はこの「文庫派」と「朋皇」を愛読したばかりか、熱心な投稿家であった。

このころの浩玻の歌にこんなのがある。
海おもへば恋しなつかし
吾を呼ぶ乙女もあらめ
吾がめかくれに

ロマンチストでもあり、情熱家でもあったのだろう。文学への情熱を抱きながらも、海へ乗り出して行った、若き日の浩玻がこの歌によく表われていると思う。

浩波が水中を卒業したどき起こったエピソードをもう一つ披露しよう。それはある金満家から養子にもらいたいと甲し入れがあったときの浩玻の態度である。彼はこの話を聞くと、こういったという。

「男子四万の志あり、小天地に跼蹐すべきにあらず、何ぞ坐して他家の富を嗣がん」

この言葉の中には浩渡の全てが語られていると思う。浩玻はっきりそうした男であった。

アメリカ放浪時代
貧しく強くたくましく

明治36年(1904)4月郵船会社の土佐丸でサンフランシスコへ着いた時、浩玻のアメリカ放浪生活がはじまる。サンフランシスコへ着くと、まず彼はサンフランシスコ日本人福音会というヤソ教の宿舎に入り、パシフィック・ハイ・グラマースクールに入学した。

このグラマーハイスクールに2年在学しアメリカ人以上の成績で卒業すると、こんどはローエル・ハイスクールに入学した。ここでも浩渡は数学が得意で、数学の時間に詩集ばかり読んでいたという。それでも米人の教師は、米人の学生たちに「日本人の武石を見ろ」と言って励ますほどだったと言う。

このローエル・ハイスクールも浩玻は2年で退めてしまった。彼がいうには「ばかばかしい」からというのが理由だった。明治39年の秋である。

この後、浩玻のアメリカ生活は辛酸を極める。南カルフォルニアにながれて、あるときはボーイ、あるときはコック、あるときは密柑とり、あるときは葡萄畑の労働またあるときはさとうだいこんやペッパーセロリーの栽培と彼の転転たる生活が続いた。そして忘れてならないことは、こうした苦難の中でも彼は苦学力行の生活を続けたことである。

あるときは、労働で貯めた少しばかりの資本で日本製の美術雑貨を買い、スーツケースに入れて行商をして歩いた。その足跡をたどると、ロスアンジェルスを振り出しにネバタ州のフレズノ、アリゾナ州を通ってテキサス州のサンアントニオ市、ルイジアナ州のニューオーリアンズ、フロリダ半島、ニューヨークと続いた。しかしこの苦しい行商も結局失敗に終わっ
た。1908年(明治41年)1月のことである。

アメリカとの冷却期

浩玻の行商が失敗した原因にはアメリカの不況もさることながら日米間の非友好的空気が濃厚になってきたことがあげられるだろう。

1898年(明31)には日本労働者排斥案がカリフォルニヤ州議会に提出されたのをきっかけに1906年(明39)にはサンフランシスコで日本人学庄の就学拒否問題が起こり、ついでハワイ在住の日本人労働者の入国禁止と日本移民の禁止などを条項とする日米紳士協定が1907年に結ばれた。おまけにこの年には、バンクーバー暴動事件が起こるという具合だった。この事件は、アメリカ本国への入国禁止となったハワイ在庄の日本人労働者がカナダに向かい、バンクーバーに上陸することを恐れたカナダ政府が、日本人排斥をはじめたためこれに憤慨して日本人の集団地域であったバウエル街に暴動が起った事件である。これは結局、日加紳士協約で一応の解決を見る。浩玻がスーツケースをぶらさげて行商したのは、このような日米間空気の冷却期だったのです。

このころの浩玻の手紙によると「僕は乞食のような外観を有する行商をやった」とあるから、その苦難が察せられる。友人への借金申込みの手紙が残っているのもこのころである。これが浩玻24歳の青春なのである。
この頃の浩玻の手紙をもう少し紹介しましょう。これからは浩玻の怠みない人生記録である。最初の手紙は30歳近くなって大学にはいる友人を激励し、同時に自己の奮起をうながしたものである。

「…君が一通訳を以て甘んずる人でないのを知っているたから大いにためたら、必ずどこかの大学に入ることは遅かれ早かれ事実となることと思っていた。果たして来年入学の予定だという。賀す可きの次第だ。年の少し位取ったって夫が何の障害ぞ。僕の故国なる根本正がJohons Hopkinsを出したのは37歳であった……男子思い立ったらやる可し。何も人を顧み自らを顧る必要はない。向上一路進む所に進み、止まる所に止まれば可なりだ。他日君がAB(文学士のこと)かMA(文学修士のこと)かの学位をつかみ日比谷原頭大いに雄弁を揮ふの期あるを待ち望む。君が大いに有望なのに反して僕は大いに有望でない。尤も吾輩は有望じゃと人に吹聴するこは真に有望な人でも出来ぬことなのに、有望でないものが有望だと自らいえた義理でない。なぜ僕がそんなに駄目かと側面から見れば曰く金を儲ける術を知らないのは酪駝(らくだ)が沼沢に鰐魚が砂漠に昼寝しているようなものである。億劫(おっくう)を過ぐるといえども遂に活動の機がない。

双手空拳を以て天を回すことは一寸近時文明の世では出来ぬ相談だ。僕とても肉体が少し常人より分量において劣って居れ、横眼縦鼻も人間を組織している元素においては変るところがない。飯も食へば呼吸もする。陸を走り海を渡る術も心得て御座る。乍併一つ金を儲けることがどうも出来んので困る。これこそ現世において尤も大事なことなのに僕にはどうも甘くいかん。胸に手をあて、九十九夜眠って考えてみたが金の儲かる事は考え出せなんだ。禅は僕に大野心と大欲望を与へて置き乍らこれを逐げる術を教へてくれぬ。天道果して是か非か!と言ひ度くなる」

ユーモラスな浩玻の手紙
だが鋭い社会批評も

また別な手紙では「学問だけ忘れるなとあるが、僕不肖と謂えどもこれだけは忘れない。忘れた時はわが一身が未来永幼浮ばれずに沈むの時だ。男子生まれて四方之志ありて事いふまでもないが、荷しくも一介の男子と生れたものが沈香も焚かず屁もひらずに世を暮らしては天道様に申し訳が立たない。僕は詩人になるがいいと度々いはれるが専門にやる気はない…。僕は詩において理想のパラダイスに遊びエンジエルに接吻しても同時に各国海軍のトン数比較表を忘れることの出来ぬ男である。」

浩玻がユーモラスな人間だということがよくわかるだろう。またこのユーモラスな眼は社会か鋭く見ていることが、次の手紙の一筋でわかる。

「今朝のヘラルド(新聞の名前)は支那で日本商品のボイコットをやり大々的に書き立てた。支那文をそのまま半頁も出したところ狂気の沙汰だ。ヘラルド位日本の嫌な新聞は米国広しといえども数多くあるまい。日本だって紀元前からのかたきでもあるまいし」

またこんな爆笑を誘うような手紙もある。これは友人の縁談について書いた一節。

「エライ処から縁談を持ちこまれた由。イヨー色男とここははやさではすまぬところなり。娘がホントーに別嬪なら開いたロに牡丹餅だが、えて媒介者はどんな娘でも別嬪というから気をつけんといけない。女のまずいのを貰ったら60年の不作。三度のめしをまずく食わにゃならん。近頃女子教育とか何とか文句をいうけれどやはり女子の生命は生殖器と容姿に存する。よく調べ給え。よければ行ってはどうだ。そして英国習字なんてしゃれるがいい」

とにかく浩玻はコチコチの人間ではなかった。充分に機知のある余裕たっぷりな人間である。そして文学的センスがあるのは、手紙の一節からもうかがわれるだろう。

行商に失敗したあと、浩玻は再びエプロンに身を包むことになった。コネチカッツ州のニューヘブン市のエール大学教授の家にコックとして住みこんだからである。

ニューヘブンは当時のアメリカでは文芸の都として多くの学究たちが集ったところだが、いかに文化的香りの高い街にいつも、エプロンを胸にかけ、襷を振っていたのだから浩玻の気は晴れなかった。

パイロット誕生「白鳩」号も無事購入
滞米苦節十年が実る

文学青年で俳句指導もする

浩玻は号を大効と言って、俳句をたしなんだ。フレズノのターピー農園に働いていた頃、ターピー吟社という俳句の会を起し、仲間たちを指導したという。そして英語入りの俳句をつくったのは浩玻がはじめてだという。浩玻はまた「大陸趣味」という新熱語をつくったりした。

こうしているうちに、運命の1908年(明41)が来た。この年、ロスアンジエルスの田舎ドミグウエーでフランスの有名な飛行家ルイ・ポーランが飛行するという事件が起った。この珍しい事件は、ものすごい人気の中で行われた。この頃の飛行機はちょうど現在の人工衛星くらいに当たる科学的事件だったのである。

この頃浩玻はロスアンジエルスのある下宿屋で便い走りのような仕事をしていたが、ルイ・ボーランがドミグウェーの空を飛ぶというので、友人たちと見物に行った。実際的には、これが浩玻の飛行家としての運命の第一歩だった。ポーランの飛行ぶりを見て、すっかり感激した浩玻は「人生よろしく飛行家たるべし」と語ったという。浩玻は決意したのである。

その後、浩玻はユタ州のソルトレーキ桁に行って新聞記者をしたりしたが、飛行家への夢はずっと続いていた。この地にいる間、ユタ大学に通っていたが、余裕のない生活のために思うように勉学もできず、間もなく退学して同地を去り、再び東部地方に放浪の旅に出た。

しばらくして彼はスメルザに行き、農園に働くことになった。この地には約4年ほど落ち着いて、労働と飛行機の勉強に没頭した。労働の合い間合い間にも飛行機の本を離さず、夜になっては容易にランプを消さなかったという。このため同室者から、眠れないで困るという文句が出たが、そこで浩玻は明りの三方を紙でかこい、相変わらず勉強し続けたという。

この異常な勉強ぶりがスメルザ日本人会の間で評判になった。それほどまでに飛行機にうちこんでいるなら、飛行機学校に入ってもらおうということになった。このころ飛行機学校に入るには700ドルという大変な学資が必要だったが友人たちの協力援助と飛行学校の厚意で、めでたくサンチャゴのカーチス飛行学校に入学することができた。1912年(明45)2月17日のことである。

明治36年の春、アメリカの土を踏んでからやっと10年目に、浩玻ははじめて確かな夢の一片をつかんだのである。3カ月たつともう浩玻は立派な飛行士だった。入学した当時から学問では教師以上だった。そして3カ月後には、優秀な成績でカーチス飛行学校を卒業したのである。

だが、飛行学校は卒業したが、浩玻には飛行機がなかった。日本へ帰るには、どうしても飛行機を持って帰りたい。飛行機なくしての帰国では、せっかくの飛行術も宝の持ち腐れである。浩玻は仕方なくスメルザ日本人会の幹事長寺畑広一という人に相談した。
寺畑氏も快く同意した。こうして浩玻の飛行機を買うために、後援会が組織され、スメルザ飛行会社白鳩後援会と名づけられた。和歌山県人の浅利鶴松という人などは一人で600ドルも出し、4000ドルが集められた。飛行機はすぐドミグウエーの会社に注文された。大正2年の2月のことである
同年3月5日には、カーチス式推進型複葉機噸機が浩玻の手に渡った。
この飛得機は全長40尺、ホールスカット60馬力。発動機はドイツ製。発火器はフランス製という、当時では最新型のものだった。

3月22日、サンフランシスコを出航した春洋丸は、4月7日夜横浜へ着いた。浩玻にとっては実に11年振りの帰国である。この日を浩玻の最良の日と言うべきだろう。浩玻はついに夢を背負って帰ってきたのである。いまはもうみじめなエプロンやフライパンや箸は必要ではなかった。

この帰国を前にして明治44年に書いて日本へ送っていた「飛行機国防論」が「日本及日本人」に発表され、さらに朝日新聞に転載されていたので、浩玻は有名人であった。

従って浩玻の日本初飛行は朝日新聞社によってさっそく企画された。浩玻も承知した。民間飛行家として日本の空をある程度飛んだ者はまだ一人もいなかったのだから、浩玻の意気込みが察しられる。朝日新聞の企画も大変な熱の入れようだった。

このとき朝日新聞は、次のようなことばで熱烈なキャンペーンを行なっている。
「19世紀の文明は地上の文明にして、20世紀の文明は空中の文明なりとは、最近飛行界の進歩を形容せし言辞なるが、本邦における飛行界は、この世界の趨勢に副はんがため、尚一層の努力を要する状態にあり、新に帰朝せる武石浩玻氏は、民間の飛行家としては、その技術において本邦未だ類例を見ざるの人、本社は今回同氏を聘して左の計画により本邦空前の大飛行を試み、わが飛行界に一新紀元を作らんとす」この「左の計画」とは、次のようなものだった。

  • 第1日(5月1日)記念飛行
  • 第2日(2日)普通旋回飛行
  • 第3日(3日)都市連絡飛行 鳴尾ー大阪ー深草ー京都市上空ー大阪ー鳴尾
  • 第4日(4日)高度飛行

ところが、5月1日は荒天のために、3日からはじめられることになった。
第1日目の5月3日の記念飛行旋回飛行は大成功だった。高度3200尺(約1000メートル)、飛行時間35分2秒、距離35里(約56キロ)が、その記録である。
翌5月4日は、京阪神都市運絡飛行の日である。空美しく絶好の飛行日和だったという。午前10時20分、浩玻はわきかえる歓声をあとに鳴尾競馬場を出発した。10時40分には、大阪城東練兵場に着陸した。この浩渡の飛行を見んとして集った大阪市民は10万をこえたという。

午後0時22分27秒、浩玻機は第十穴師団長長岡中将にあてた天阪衛戌司令官代理藤井少将の手紙と京都市長にあてた大阪市長の手紙を持って、大阪を出発した。運命の京都の空に浩玻機が現われたのは、午後8蒔50分である。同55分、観衆の歓声のるつぼの中に浩玻機は降下して来た。

そして今や無事着陸と思った瞬間浩玻機はもうもうたる砂塵の中に消えたのである。時に午後0時55分30秒。4月7日、横浜へ費いてから27日目の出来事である。苦節の歳月は長く、栄光の日々はあまりにも短い。

砂塵の前に駆けつけた人々の前で、浩玻機は前半分を破壊され、浩玻自身は人事不省に陥っていた。30歳の命は、ここで終るのである。独身。生と死を通じて、浩玻の全ては劇的であった。浩渡の傷状は次のことくしるされている。

  1. 頭蓋底骨折
  2. 右顔面挫折兼上眼窩骨折
  3. 左太腿骨折
  4. 右鎖骨骨折
  5. 右畢丸挫滅創
  6. 会陰部挫傷

このうち致命傷は、頭蓋底骨であるという。

アメリカのパイロット、E・K・ガンは1940年に出版した「カイロード」という本の中で「当時(1900年の初期)ジエニーの愛称で呼ばれたカーチス軽飛機を見て、世人は”空飛ぶ枢”と陰口した」と書いていますが、この陰口が浩玻機にも的中したのである。しかし、この陰口では言い表わせない、浩玻の闘いの人生は、一つの歴史としで私たちにのこされたのである。(浩玻の資料として貴重な蔵書をお貸して下さった武石哲造さんとこの貸与にご便宣下さった日立市の谷崎義一さんにお礼いたします)

広告