水戸対地射爆撃場返還の歴史

現在の国営ひたち海浜公園や常陸那珂地区は、昭和21年から昭和48年の27年間、水戸対地射爆撃場として使用されていました。

昭和36年ごろから始まった返還運動の歴史を画像で公開しました。

(市報かつた昭和38年3月1日号から)

みんなで考えよう 水戸射爆場の問題

さる1月24日、前渡地方農協に米空軍B57爆撃機から模擬爆弾が誤って投下されてから1ヶ月を経過しました。この間、県も市も、政府や米軍に対して強力に射爆撃場の返還運動を行っています。この事件については、幸いに人命に被害はありませんでしたが、もし、落下のコースが少しでも違っていたら、どのような事件が起こっていたかわかりません。この射爆撃場が設置されてから、過去17年間には、数多くの犠牲者が出ていることからも、これは当然の心配なのです。

人の命は大切なものであり、それは守られなければなりません。ここでは、いろいろな角度からご紹介して、事件および射爆撃場についてみなさんと一緒に考えていきたいと思います。

■射爆撃場設置後死亡者は20名

日本国内には、米空軍の射爆撃場が3カ所あります。それは水戸、芦屋、三沢の各射爆撃場です。

わたくしたちが問題とするのは、もちろん水戸射爆撃場ですが、同地が射爆撃場として、適しているかどうかを考える上で他の射爆撃場で起きた事件数や、その内容と、水戸との比較をしてみましょう(ここでは都合により芦屋との比較をしてみたいと思います)

はじめに総体的に事故件数を見ますと、

  • 水戸 122件
  • 芦屋 43件

となり、同じ期間に水戸射爆撃場の場合は芦屋の3倍の事故が発生しています。このうち、誤投下事故がどちらの射爆撃場の場合も圧倒的に多くなっています。

これらの事故の中には、水戸の場合、昭和35年の死亡1件のように、人命に被害があったものが他にも多数あります。水戸射爆撃場設置以来、死亡者20名に達しています。芦屋が、昭和31年から昭和35年の間に1名という数字が出ています。

水戸射爆撃場は、どうしてこのように事故が多いのでしょうか。次にその原因を探ってみましょう。そして、射爆撃場があることが、勝田市にとって、どんな損失を招いているかも、同時に考えてみましょう。

■ジェット機には不適

なぜ水戸射爆撃場周辺で、事故が多いかを、簡単に言うと、航空機の性能が非常に進んているのに対して、「射爆撃場が狭すぎて、射爆の演習地として不適である」と、このことからまず結論づけられると思います。

これを具体的に航空機の速度の点から考えてみましょう。

戦争中、前渡飛行場として使用していた当時の航空機の性能は、時速250〜300キロメートルと考えられます。この速度で飛行場上空(最南端から現在のロケット弾標的までの約3000メートル)を通過するのには、30秒前後かかりました。

ところで現在の米空軍のジェット機の速度を”時速800キロメートル”として、射爆撃場最南端からロケット弾標的まで12秒、機関砲標的まで11秒となります。

さらに、このような速さで飛んでいる飛行隊から発射された弾丸には加速度が加わり、もっと短時間で目標へ達します。

ですから、射爆撃場上空に入る前(区域外)にすでに発射装置を開き、または射撃体勢を整えていなければなりません。もし、発射を開始するのが少しでも早かったり方向を誤っていたりすると、区域外へ落下するのが当然なわけです。

■周辺居住者も3000人

その、区域外の人々の居住状況は、射爆撃場沿い(1キロメートル内外)に約3000人(500世帯)が居り「芦屋、三沢に比べて水戸射爆撃場周辺の人口は非常に密集している」と防衛施設庁統計課でも語っているとおり、事故が起こる危険性をもっています。

また、広さからいうと、アメリカ国内の射爆撃場は500〜600万坪あり(防衛庁調べ)水戸射爆撃場の2倍近くあります。

とりもなおさず、水戸射爆撃場は、射爆演習地としては、狭いのだと、結論づけられることになります。

このような理由から、今までに起こった事故による勝田市内の被害総額は、8000万円を超えています。

別な角度から見た損失として言えるのは、射爆撃場360万坪(1088ヘクタール)の土地を産業の面に使用できないことです。

これは射爆撃場としては前に書いたとおり狭いものですが、現在の第一、第二工業団地の6倍にあたり、それだけ産業開発が遅れ、損失となっているわけです。

以上のいろいろな面から考えて一日も早く返還されることが望ましいのです。

【経過】

前渡農協に模擬爆弾が落ちてから、射爆撃場返還問題が注目を集めていますが、この運動が現在までどのような経過をたどってきたか振り返ってみましょう。

昭和36年4月に茨城県知事、県議長が渡米し、直接にアメリカ政府に射爆撃場返還を要請してから、県下の返還運動は活発になりました。

昭和36年12月には那珂湊市の誤射事件を契機として「水戸対地射爆撃場返還推進本部」が生まれ、県会議長を本部長とする県をあげての返還推進体制がととのいました。

以後は、この推進本部を中心として、何回となく米国大使館、外務省、調達庁、防衛庁、科学技術庁、政党など各関係機関に幅広く返還推進運動を展開してきました。

■前渡誤投下事件以後の経過

1月24日午後2時40分ごろ、同農協に10キロ模擬爆弾が落下。損害額11000円。射爆撃場返還推進本部は緊急対策会議を開く。

1月25日、県知事、勝田市長等が上京し、府中基地に赴いたが、司令官不在のため、マッコークル副司令官に抗議

1月26日、当市では市基地対策委員会を開く。県射爆撃場返還推進本部の協議会が開かれる

1月28日、県議会水戸射爆撃場返還対策特別委員会が理事会を開いて対策を協議。

1月30日、勝田市長をはじめ地元代表が上京し、林防衛施設庁長官m加藤防衛施設庁官房長官らと会い、返還を要請。この代表団の要望に対し、林長官は「代替地が無い限り返還演習中止は無理だろう。だから代替地探しには努力している。関東地区並びにその周辺に代替地を5カ所選び、そのうち3カ所について米側と話し合っているが、双方の要求、希望条件の調整がつかず難航している」と語る。

1月31日、原子力都市建設促進協議会が県庁で開かれ返還運動について協議

2月4日、県、推進本部、県原子力開発協議会は、林長官を招き、三者会談を開く。席上地元側は、

  1. 原子力発電所付近で事故が起きたら危険この上もない
  2. 衆参両院科学技術特別委員が先に返還決議しているのに何ら進展が見られない
  3. 防衛施設庁が事故防止について米軍と交渉しているというが、事後が続発しているのは、同庁の申し入れが手ぬるいからではないか
  4. 米軍は代替地があれば返還すると言っているのに同庁はどんな手を打ったか

など意見が集中、林長官に対策を迫った。

2月6日、推進本部長、当市長らが上京し、国会において返還決議するよう衆参両院議長および自社両党に要望書を出した

■前渡農協への誤投下に対する米軍の回答

この誤投下事件に対する米軍の正式な声明は、1月25日、スマート在日米空軍司令官から県知事宛に発表されました。

この書簡の内容は、

  1. 航空機から不注意に発射された模擬爆弾によって貴県にもたらされた損害と精神的打撃に対して深く心を痛めている
  2. この事故の原因は、パイロットの判断の過失と航空方式の無視の結果である
  3. このパイロットは、責任上、航空勤務から解任された
  4. 同様の事故の再発を防止するためあらゆる安全対策を取る

の4点を明らかにし、勝田市民の皆さんによろしく伝言するよう結んでいます。

(市報かつた昭和41年10月10日号から)

また模擬爆弾落下事故。馬渡、弥生団地近くに

9月28日午前11時55分ごろ市内馬渡宮下地内の市道わきに米空軍機によって模擬爆弾が誤投下されました。

事故を目撃した人は、付近で農作業をしていた数十人。話によると、ドスンという落下音とともに白煙がたったということです。

連絡により、市ではただちに現場を確認しました。

事故現場は、射爆撃場の標的から2.4キロメートル、飛行コースから1.4キロメートル離れた所で、市道昭和通り線の盛土をした部分(路面から約60センチ下)に打ち込まれたものです。

この付近には、市の弥生住宅団地、早川鉄工所、神保製作所などがあり、ちょっとそれたら、と思うとぞっとするような場所で起こりました。

昭和40年1月5日の三反田の模擬爆誤投下事故、同年4月5日中根の誤投下事故、同年9月23日の馬渡で起きた機関砲の誤射事故など、返還運動の盛り上がりとは反対にたびたび繰り返され、市民は不安と恐怖におちいっています。

また、これらの事故の原因も明らかにされず、射撃演習は続けられ、またどこかに誤投下事故が起きるかわかりません。市民にとってははなはだしく危険であり、一日として気持ちの休まることがないのが実情です。

市ではただちに関係機関に抗議電報を発するとともに抗議団を中央に送り、厳重に抗議を行いました。

また、投下された模擬爆弾の掘り出し作業は、30日米軍の手によって始められ10月1日午後4時30分に掘り起こされました。爆弾は、地下5.65メートルまで達し、掘り出された爆弾は25ポンド(11.34キロ)の模擬爆弾でした。

(市報かつた昭和42年12月15日号から)

危険ーヘリコプターのドア落下事故。知事・市長 米軍・防衛庁などへ抗議

12月1日、水戸射爆場に関連しまたまた事故が起こりました。ヘリコプターのドアが落下するという事故ですが、射爆場返還推進本部や市では、この事故を重視し4日米軍、防衛庁などへ抗議しました。

住民の安全のため即時返還を

水戸射爆場返還推進本部は、12月4日、米軍府中司令部、防衛庁などをおとづれ、さる1日勝田市金上の畑に米軍ヘリコプターのドア落下した事故について抗議しました。

この抗議には、市からは市長をはじめ市議会代表、水戸射爆場対策特別委員会全員が参加し、勝田市の行政区域内に起こった事故として重視し別項のような抗議書を手渡し特に強く抗議しました。

防衛庁はこれに対し、事故の原因としては、外務省を通じて得た回答によると、ヘリコプターのドア上部に取り付けてあるローターの止め金の材料が悪く、折れたためであると説明しました。

また抗議団が追求した昨年の日米コミュニケ後の水戸射爆場返還問題がどうなっているのかということに対しては、現在努力中であると答えました。

事故のあらまし

12月1日、勝田市金上の畑で起こったヘリコプターのドア落下事故は、同日午前11時35分ごろ、米軍立川基地所属のH19型シコルスキーヘリコプターから重さ約5キロのアルミ製ドア一枚(縦1.3メートル、横1.25メートル)が落下したものです。

落下した畑は人家から離れていたため、人畜などの被害はありませんでした。

しかし水戸射爆場からは1キロ以上も離れた地点で、こうした事故を発生させたことは、周辺住民の安全性の上からは非常に危険なことだといわなければなりません。

抗議書

勝田市、市議会、水戸射爆場対策特別委員会が共同で発表した抗議書は次のとおりです。

■米軍ヘリコプターからの落下物事故に対する抗議

水戸射爆場の返還については、昨年の日米コミュニケの発表にもかかわらず、その後何の進展も見ないまま今日に至っていることは誠に遺憾である。

しかるに、12月1日、またまた勝田市内に米軍ヘリコプターからの落下物事故が発生し、周辺住民に極度の不安を与えている。よって、本事故に対し、強く講義するとともに、ここに市民の生命財産の安全確保の立場から、事故原因の徹底的解明と射爆場の即時返還を強く要求する。

(市報かつた昭和44年2月10日号から)

射爆場 またまた中根に誤投下事故1/24馬渡にも機関砲不発弾落つ

1月24日午後3時15分ごろ、市内中根大和田地内に、米軍ファントムF4ジェット戦闘機から、とつぜん25ポンド(約12キロ)模擬爆弾が誤投下されました。この誤投下地点は、同所鹿島神社境内の一角で、もし一瞬ずれていたら、大変な人身事故になったろうと、地元のみなさんは憤激しています。

鹿島神社境内に25ボンド模擬爆弾あわや人身事故に…地元では憤激

米軍ファントムF4ジェット戦闘機が誤投下した模擬爆弾は、鹿島神社境内のカヤの大木を地上16メートルのところで鋭くえぐり8メートルはなれた土中につきささっていました。誤投下目撃者の話によると、シュッシュッシュッという鋭い音とともに地響きがして青白い煙がふきあがったといいます。万一、誤投下の時間が一瞬でもずれていたら大変な人身事故になったろうと、恐怖を語っていました。

この中根地区は、水戸射爆場から約1.5キロメートル番はなれた地点で、演習に飛来する爆撃機の進入コースのちょうど真下にあたり、昨年も70数発の20ミリ機関砲薬きょうとロケット発射装置が落下するなど、事故が頻発しているところです。それだけに射爆場演習に対する不安は大きく、こんども事故発生と同時に20数人の地元住民がかけつけ、警察などの調査を心配気に見守っていました。

事件発生後一時間以上たってから訪れた水戸射爆撃場隊長のアドルフ・パーマ少佐の説明によると、誤投下した模擬爆弾は25ポンド爆弾で米軍のものに間違いないが、事故原因などについてはせんぜんわからないということでした。

市ではこれに対し、現地にいた国本助役が即刻、パーマー隊長に抗議し、住民が納得するまで演習を中止するよう強く申し入れました。

なお、翌25日には、横田基地司令官の代理としてウエイダー中佐など一行4人が陳謝のため市長を訪れましたが、川又市長はこれに対し地域住民の安全をまもるため返還の日まで射爆場を閉鎖するよう強く要請しました。

ウエイダー中佐らの話によると事故をおこした米軍機はすでに判明し、米軍としても調査機関を設けて調査に入ったということでした。

また、ウエイダー中佐らに同行した防衛施設庁庚京事務所の係官の話によると、こんどの事故はフアントムF4ジェット戦闘機としてははじめてのもので、いままでのF105Dジェット戦闘機による事故とは、発射装置などもちがうところから基本的にちがうということです。

緊急基地対25日に開く

1月25日、基地対策委員会(深谷能業委員長)は緊急に委員会を開き、24日の模擬爆弾誤投下事故について対策を協議しました。

この結果、基地対委員全員と市長などが、27日、防衛庁、防衛施設庁、米軍橿田基地などに抗議上京することをきめました。

(市報かつた昭和48年3月25日号から)

27年ぶりに星条旗おりる。水戸射爆場が正式返還

27年ぶりの悲願がみのる瞬間としては、返還式は簡素すぎるほどのあっけない儀式でした。米軍横田基地のR・T・コーダー大佐(管理部長)と、日本政府を代表する野村栄二郎水戸防衛施設事務所長が返還書類にサインすると米軍兵士による星条旗の降納があり、返還式は終りました。しかし27年ぶりに降りる星条旗を見て、参列者はみな「こんどこそほんとうに返ったのだ」という実感を抱き、感激の一瞬をかみしめたようでした。

普通財産として大蔵省へ。米軍コーダー中佐が返還サイン

快晴のこの日、午後1時には市内東石川グラウンド、前渡小学校裏など四カ所で祝意の花火が打ち上げられ、勝田駅前日立土地ビルと市役所タワーにかかげられた「祝、水戸射爆場全面返還達成」の垂れ幕があざやかでした。

現地の水戸射爆場正門近くの広場には、米軍横田基地からヘリコプターでおとずれたロナルド・T・コーダー中佐をはじめ、防衛施設庁関係職員、岩上知事、関県議会議長、川又市長、川崎東海村長、柴田那珂湊市助役などが参列し、星条旗の降りる瞬間を侍って喜びを語り合う。

記者団に囲まれた岩上知事は「よかった。これでやっと肩の荷がおりた。知事の職をかけた大仕事だったが、県民のみなさんの協力によって目的が達成された」と喜びを語っていました。

返還式では、まず日本政府を代表して野村栄二郎水戸防衛施設事務所長があいさつ。野村所長は「米軍をはじめ関係機関と県民の協力によって返還は達成された。米軍進駐の昭和21年接収いらい実に27年ぶりの返還であるが、まことに喜びにたえない」とのべました。

このあと、米軍を代表してコーダー中佐が返還書類にサイン(署名)し、ついで野村所長がサインしました。これによって米軍から日本政府に対する水戸射爆場の返還は正式に法的に決定した訳です。

日本政府としては、水戸射爆場跡地を晋通国有財産として大蔵省の所管に移すため、さらに野村所長と、大蔵省関東財務局水戸財務部の榎本竜四郎部長との間で財産の授受を行ないました。(魚付林の部分については、農林省所管の行政財産のため水戸営林署に返還されました)米軍から防衛施設庁に、防衛施設庁から大蔵省と農林省へとそれぞれの国有地が返還されると、あとは儀式の最後をしめくくる星条旗の降納となり、コーダー中佐は大またで星条旗のひるがえる旗の下へ歩み寄りました。そして星条旗は米軍兵士によってゆっくりと降ろされ、一切の儀式を終りました。

返還のあとの簡単なレセプションでは、岩上知事や関県議会議長が喜びのあいさつをし川又市長など二市一村関係者やコーダー中佐などと乾杯をくりかえしました。

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