旧水戸対地射爆撃場の画像を公開

水戸対地射爆撃場の画像
水戸対地射爆撃場の画像

旧水戸射爆撃場の航空写真を公開しました。

旧水戸射爆撃場のこと(1974年10月10日発行勝田市勢要覧から)

わたくしたちの市の歴史を語るとき、旧水戸射爆撃場にふれずに通りすぎることはできません。それほどこの射爆撃場が勝田市の上におとす影は大きいのです。

旧水戸射爆撃場は、昭和13年に水戸陸軍飛行学校として開設され、終戦後の昭和21年6月1日、米国進駐軍によりその全部が接収され、米軍の演習場となっていたものです。

以来、射爆場は多くの問題を起こしてきました。その最も悲惨な事故は、昭和24年7月21日、演習中の米軍機の誤射により、住民1名が死亡したことでした。この他にも、誤爆、誤射などの事故や騒音の被害があり、さらに精神的なものなどをあげたら枚挙にいとまがありません。

このため、市は全面返還を目ざして米軍や政府、防衛庁などと接衝を続け、市民大会などの返還運動を展開してきました。

その結果、漸く昭和46年1月1日以降、米軍の演習が中止され、さらに昭和48年3月15日を期して全面的に射爆撃場は日本政府に返還されました。

この旧水戸射爆撃場は、約1,150万平方メートルあり、そのうちの56%、643万平方メートルが勝田市に属しています。その他の部分は、那珂湊市と東海村に属しており、今後、この射爆撃場の跡地の利用いかんによっては、それらの市村に対する影響は、はかりしれないものがあります。

返還運動の時代、勝田市を含めたこれら二市一村は、その地元市村として中心的役割を果してきましたが、今また、その利用計画について、それぞれ検討しており、その結果を、二市一村で協議調整しながら国や県の構想に反映させるべく努力をしているのです。

ともあれ、この広大な射爆撃場の跡地が、平和利用のもとに開発された暁を考えるとき、勝田市が大きく変貌することは明らかです。

そのような将来を予測し、わたくしたちの市では、現在この射爆場跡地利用構想も含めた形で、勝田市総合計画改定作業をすすめています。

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